メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

惨月記

 

表向きに大手を振って言える趣味として旅行をラインナップさせると、他人からは俄然アウトドア派として見て頂けるんですけど、このお盆、太陽の下に出なかった。夕暮れに起き出しては、製氷機に溜まっている氷を、口に入れてガリガリする暮らし。もし昼に起きていれば、昼の時間はほぼソシャゲに溶かし、夜に起きていれば、夜の時間もほぼソシャゲに溶かしていた。ソシャゲしてない時間は、ツイッターをしていた。リアルタイムに向こう側に人間がいるツールの吸引力は凄いなと、このお盆で改めて実感した。指を上下にシコシコスライドさせるだけで、脳に新たな刺激を得られるのだ。かといって、そんな毎秒置きに推しカップリングに関するツイートがされている訳でもないので、十分おきにカップリング名でツイート検索をかけるのは、もうそろそろやめてほしいと思う。

去る七月にははてなブログから、「ブログを開設して3年が経ちました」という件名のメールが送られて来ていた。三年前の七月というと、もう何をしていたか思い出せないんですけど、二年前の四月に何をしていたかは思い出せる。その時期に「ツイート用ツイッターアカウント」を開設したと、ツイッターが教えてくれるからだ。

 

かつて世は大同人時代であった(自分史)。

兎に角何かしら、フォローフォロワー関係から人脈を作り、自分好みの妄想を他人の頭に植え付けようと躍起になっていたんですけど、まぁ無理でしたね(この時点で二年前の四月)。

日頃リツイートしては何がしかの感想をツイートするアカウントは、たまに私の創作物をリツイートしたかと思うとその後に続けてお決まりの感想ツイートらしいものをしねぇし、後発の中堅コミュ強字書きのpixiv小説めっちゃいいね付く一方、その直下に表示される自分の作品鳴かず飛ばず

反響の無さというものを理由に筆を折れればよかったんですけど、残念ながら私は自分の書く同人文章が大好きだった。というか、そもそも自分が大好きな話を他人が創作してくれるのをずっとは待っていられずに、絵を描けないから文章を書き始めたというウカレポンチだったのだ。未だに同人小説という言葉を使うのには、若干の気後れさえ感じる。

そうして延々と自分の好きな事を書き続けては、自分と他人の間にある深い断絶、同じ原典を目の前にした時の感じ方の違い、これが解釈と言われるものか? 或いは倫理観、論理展開の違い等々を、長いこと図りかねていた。

最初は単純に、自分の作品が人目についていないだけではないかはと思い、次いで、人間はそれぞれ思想の好みが違うのだろうという、至極当然なところへと行き着いた。

しかし、どうだ? 私の介在しないところに存在する、他人と他人、カップリング観というか、思想の好みが合い過ぎでは? これは、果たして、どうだ、私がおかしいのか?

 

自分の正気を証明する為に、より多くの他人の目につくことを意識して、サークル参加とか、したんですけど、駒を進めれば進める程、ひたすらに、私の狂気が証明された。

同人誌なんて出す連中は皆狂人(くるんちゅ)だという趣旨のツイートを私はツイッターで見たことがあって、それは本当にそのとおりだと思うんですけど、それにしたって限度がある。

皆、人間と喋っているように見える。私は何だ? 壁のシミと喋ってるのか。別に壁のシミと喋ったって、自分一人の部屋では気にすることもないんですけど、同じ教室にいるように見える周りの他人は、皆人間と喋っているように見える。

 

 

人間と喋ろうと努力をした。ツイッターのアカウントを公開にし、頭を捻ってリプライに回答した。その結果いくつかのフジョシのアカウントから、お声かけを頂いたりするようにもなったんですけど、私と喋ってると、フジョシ、不思議と言葉少なになるようで、いや、コミュ障は今に始まったことじゃないんですけど、そこのコミュ障を自称するオタク同士は、いかに自分らがコミュ障で、共通する特徴を持つ推しカプの受けがどうのこうのと言っている訳です。

物言わぬ壁のシミだけが、私をジッと見つめている!

 

所謂フジョシとの交流、人脈作りの限界を感じたのが、二年前の四月だった。

私はツイッターのアカウントを新たに新設し、イベントに関するスペースナンバーの告知であるとか更新報告であるとか以外のツイートを、全て新設した非公開アカウントのみで行うようにした。

私はそれに「ツイートアカウント」と呼ぶようになった。ツイートをする為のツイッターアカウント。言葉の著しい重複を感じますねこれ。

 

タイムラインすら神経に障るような状態だった。たまたま私がpixivに何かを投稿したような時に、確実にオンラインになっている(という風に見える)フジョシのアカウントが、他人のpixiv小説を絶賛したりしているのが見えるから。

なので当時自分のタイムラインを自分ないし神経に障らないアカウントのツイートのみで埋め尽くすため、私はリストごとにタイムラインを管理するやり方を実践した。これは現在に至るまで私のSAN値減少を少な目に留めてくれる有難い手段なのですが、まずフジョシであるとか同人の者がやっているアカウントを、件の非公開アカウントでフォローする*1と共に、当該アカウントをミュートし、ジャンルごとに整理したリストに入れて観察をするのだ。こうすると、同人関係のツイートはタイムラインには流れないが、リストを閲覧すると同人関係のツイートの流れを把握できる状態を作れます。

そこに人間が存在しているらしく見えるツイッターソウルジェムの濁ったフジョシにはとにかく向かないんですが、そんなタイムラインを見ているとブチギレそうになるフジョシにおすすめのツイッターライフハックの紹介でした。

 

それで、話は私がSNSで発狂してから二年後の八月現在に戻るんですけど、

そういう訳で、訳の分からないツイッターアカウントを複数運営している状況が続いている。今はただ更新連絡用でしかない公開アカウントも、元々は交流用に持っていたものなので、矢鱈とフォロー数が多い。しかし公開アカウントでタイムラインを追うことは、情報の波に溺れたいとき以外殆どないし、ツイッターを用いて情報の波に溺れるような時間は、さっさと睡眠時間に宛てた方が余程有意義であるということを私、この二年間かそこらで学びましたので、公開アカウントの方のフォロー整理をしよう*2と思い立って、久しぶりにパンドラボックスを、それと気付かず開けたところ、出てくる出てくる。何が? 厳しい記憶だ。

かつてこの神絵師と相互フォローであった記憶だとか*3、他人のアカウントのいいね欄に見出した、かつて一度タイムライン上に感想を放流してくれたフジョシの新生アカウント*4、後は何? もう十分だ。これぐらいの記憶が復活してきた辺りで、私の神経がゴリゴリともう寿命が近いノートパソコンのファンのような音を立てて擦り切れた。

そもそもが、矛盾している。私は常に自分好みの創作を他人がしてくれることを期待している。自分が所謂創作活動に触れる原点がそこにあったからだ。しかしそれが叶うことは、本当にごく稀であるから、私は自作を続けている。しかし他人の頭の中を覗きたいという、所謂ROM願望というのか? そういったものは私の原点として強く残り続け、結果的に、フジョシ村社会において得てして称賛を受ける他人と自己とを比較する境地に至ってしまう。キャスパリーグ! どうすればいい? 悟りどころか逆悟りの境地、肥大する自我、虎! 「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁傪!呼びかけてくれ袁傪! 袁傪! 壁のシミだけが、ジッと私を見詰めている!

 

SNSでこんな狂うことが出来るならツイッターやめればじゃあ真人間じゃないのと思うこともあったんですが、じゃあツイッターが無かったら私は、この自分の意思とは無関係に湧いて出る諸々の妄想を、一体どこに書き留めればいいか、最近はGoogleメールの下書きを使ったりもするんですけど、あれ時々唐突に消えることがある(原因は私の操作ミスだ)ので、正直あまり信用ならない(しかし一番信用ならないのは操作ミスをする私の指だ)。

それに妄想ツイートをせめてオンライン上に散りばめれば誰か王子様が、私好みの何かを描いてくれる、書いてくれるかもしれないじゃないですか!(わりと振り出しに戻る)

 


人として軸がぶれている - 大槻ケンヂ

*1:最初はリストのみで管理していたが、時々リストは妙な挙動をしてアカウントが漏れたりするので、フォローが一番確実だと思っている。

*2:この時点で既にさっさと寝た方が良い兆候

*3:神絵師と相互フォローになると、ワンチャン神絵師が自分の妄言を元に神絵を描いてくれるんじゃないかという、隕石が自宅に落下する程の可能性にフジョシは縋りたくなる。※個人の考えです

*4:わざわざ同人小説読む人間はめちゃめちゃレアなんですけど、その上で感想まで見せてくれたりすると、これは個人の考えですが、書き手は感想をくれたアカウントの名前と発言の傾向(それが創作者である場合は絵柄や文体)を覚えるので、同じような界隈の人間とSNS上でつながっている場合アカウントを輪廻転生してもほぼ同定が可能