メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

友だちはいないからネットにクワガタの絵を描く

 

ツイッターで生きているとたびたび、「光の腐女子VS闇の腐女子」というような構図の話題が現れては消え、現れては消えていく。これ以外にも「暁の腐女子」みたいな分類もあるらしい。

その話題が出現するたびに、タイムライン上に並み居るアカウントたちは、自己の妄想の方向性を手際よく分析し、次々と自己を表明していく。時々「〇〇さんは光の腐女子だと思ってました~」だとか、「▲▲さんは創作は闇の腐女子だけど思考は光の腐女子」とかいう、他人による他人の他己分析を見ることもある。ツイッターのアンケート機能でなん、かアンケート取ってる奴もいる。

いいな!!!!!!!!!!!!!!!!私も自己分析したい!!!!!!!!!!!!!!自分を定型文に落とし込んで安心したい!!!!!!!!!!!!!!そうやって定型に落とし込む過程で、他人にわたしの創作傾向とか分析してもらいたい!!!!!!!!!!!!!友だちがいない。


光の腐女子なんだか闇の腐女子なんだかの一つの境界線としてよく知られているのが、「妄想の中で最終的に、その二人をどういうエンディングに持っていくか」だ。「腐女子属性診断テスト」なるものがあれば、多分最初にこの質問をされるだろう。「Q1、あなたはハッピーエンド、バッドエンド、どちらにグッとくる?」である。

私はこの時点で、分類不能に陥る。そもそも「幸福」か否かを定めるのは主観であって、主観の位置によってハッピーかそうではないかは変化するのでは? 見方によって変化する問いは不適切だ。「質問を変えよう。」と、内なる私Aが言う。

「じゃああなた、自分の創作でキャラクターを「幸福」にしたいと思っている?」

内なる私Bはそれに答えて、「幸福であってくれれば、この上ないけれど」と前置きをした上で、「別に幸せになってほしいわけじゃない」と言い出した。

 

話は変わるが、ツイッターで生きていると、光の腐女子闇の腐女子論議よりは少ない頻度で、「好きになるキャラクターの傾向」というような話題が時々、墓の下から蘇るようにやってくる*1

黒髪とか金髪とか短髪とか長髪とか、生き様とか死にざまとかポジション(主人公、主人公のライバル、主人公の親友、ヒール、など)とか、なんか様々な性癖をもって、腐女子*2が、色々な自己のアイデンティティを表明してくれる。うらやましい。私も自己の性癖の傾向を明らかにして、新たなジャンルへの傾向と対策にしたい。

私も自己分析を開始するために、歴代のドツボにはまったカップリングを並べてみるが、外見的特徴の共通点がマジで見当たらない。好きになるキャラクターの外見に、一貫性がないのだ。ゴリラ体系だったりモヤシだったりする。

というか、おそらく私は、二次元キャラクターの外見に興味がなければ、大した拘りもない。最近ヒプノシスマイクの弁護士を見て初めて、「顔が良いと思う」という感想が出た。我ながら驚いた。「顔が良い」という形容を、私はこれまで自分の飼っているハムスターにしか向けていなかった。あいつはマジで顔がいい。すごい なんというかこう、顔のオーラというか、透明感? が、違う。

 

 

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これは顔が良いハムスター

 

そもそも自分の傾向を考えてみると、私は「キャラクター」というより「カップリング」に先にはまり込んでいる気がする。じゃあそもそもお前、どういうカップリングが好きなんだ?

自分が好むカップリングの傾向を考える。フジョシは自己の関係性への傾倒も上手に分析して言葉にし、自己主張してくれる。自己の傾向どうしてああも的確に把握できるのか? 私の疑問なんて本当に知る由もないフジョシAは、「私はこれが好きです」と簡潔な言葉で明言してくれる。同じように的確に自己の性癖を把握している腐女子Bが「〇〇さんもですか!?」とリプライを送る。そのうちその人らがサークル参加後に飲み会をしたりスカイプでチャットをしたりして、ツイッター上で以前程観測されなくなる。ツイッター社交の世界である。そう! このSNS時代において他者と交わるには、まず自己の傾向を把握することが不可欠だ。自己分析が大事。5000円超を支払って占い師を困惑させる自我ふわふわスフレ状態でそんな偉業を成しえるはずがない。

ところで、カップリングの傾向にも、兄弟とか弟兄とか師弟とか弟師とかライバルとか何とか、色々あるんですけど、これまで私が二次創作に手を出す程ハマったカップリングを自分自身で並べてみても、いまひとつ共通点が見えない。ここでサカナクションが踊り始める。アイデンティティがない、生まれない、どうして?

 

かくしてカップリングから掘り下げる方向性は、サカナクションの登場により行き詰った。ここで創作スタンスに戻る。これはあくまで私の場合だが、「二次創作をするに至ったキャラクターの要素」以上に、「やってしまった二次創作が目指している傾向」を見た方が、まだ共通点が多い気がしたからだ。

 

「別に幸せになってほしいわけじゃない」

冒頭で内なる私Bが出した回答。おそらくこれが、私の二次創作の傾向で違いはないだろう。

そしてこの時点で、既に多くのアカウントとたもとを分かっている気がしなくもない。私が観測している多くの二次創作者は、「いかにキャラクターを「自分の考える幸福」の状態に持っていくか」に煩悶していることが多く、それから外れる妄想をしてしまう「自分」を叱咤しながら、それに興奮しているようなツイートをしているさまを度々観測したからだ。私にはおそらく、その「良心の呵責」フェーズが無いとまでは言わないが、タイムラインで私が観測したその他のフジョシと比較すると、それが短い、もしくは薄い。

かといって、キャラクターが辛い状態であることに、何らかのカタルシスやフェティッシュを感じるわけではない。辛い状態は可哀想だと思うし、そうあるべきではないと考える。

 

じゃあお前の好みは何なのか?と、突き詰めるようにして考えていくと、おそらくそれは「闘争」にあるのだろうなと、わりと年単位でこの創作スタンスだの自分のハマる傾向だの性癖だのについて考えてきて、ようやく最近、そう思うようになりました。

わたしは、キャラクターとキャラクターを便宜上カップリングにした上、その枠組みのなかでキャラクター同士が、自己の権利のために争うその瞬間に、大変なカタルシスを覚える。

なので、別にカップリングに幸せになってほしいわけではない。カップリングが幸せになっているものもそれはそれとして見るが、カップリングにしてキャラクターを「闘争」させるより、そもそも人間関係の成り立ちからして「闘争」の要素を含んでいるキャラクター同士の関係性を好む傾向があるので、恋愛然としたカップリングの作品なんかは、その創作者が原作で明示された「闘争」を、どのように克服しているかという点に主眼を置いて閲覧することが多い。

しかし、「ケンカップル」が好きなわけではない。「公式ライバル」とか「競い合う仲間」とか、そういうものではないのだ。

では、私が好む「闘争」とは何か。言うなれば、こう、「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」という共通テーマを、わたしはまとめて「闘争」という単語に置き換えていた。

 

「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」とはどういうことか?

ここで具体例として、弱虫ペダルの御堂筋翔くんと石垣光太郎くんの関係性(~箱根インハイ三日目まで)をあげさせていただきます。突然オタクの早口になった。これまでもオタクの早口なんですけど、ここから俄然フジョシの耐えがたい早口にトーンアップしている。

経緯は色々とあるんですが、新一年生の御堂筋くんは、持ちかけたタイマンのレースで最高学年の主将である石垣くんを下し、石垣くんから京都伏見高等学校自転車競技部の操縦権と、エースナンバーを奪います。石垣くんにとって御堂筋くんは、文字通り突如現れた異物。しかし異様に早い。自分よりもはるかに、そして、明らかに実力がある。彼はこの異物を渋々承服し、チームの勝利のために、新一年生にかしづくことを選びます。ここで描かれる異物への葛藤と受容の試み、異物からの反撃、当然覚えるような反感を飲み下す理性など、人間関係における「闘争」が好き。いや、ほんと他にも色々あるんですけど、原作でこれと明示されている中で、最も説明しやすいのがここだ。

人生に現れたこの承服しがたい、しかしそれと同時に逃れがたい異物に困惑する、憤る、抗う、諦める、克服する、足元を掬われる、さまざまな形でこの異物に「折り合いをつけていく」という過程に、わたしは恐ろしく興奮する。ここが、フジョシ用語における「性癖」であると思われる。

キャラクター同士の人間関係にハマるときも、私の場合、おそらくこの「闘争」の好みが影響してくる。先述の御堂筋くんと石垣くんのように、原作で「闘争」への可能性が明示されているキャラクターの間に発生しうるさまざまな関係性を好んで見る。

「闘争」が起こる必要があるので、互いにとっての互いの存在、あるいは、どちらか片方にとっての相手の存在は、少なからず理不尽である必要がある。それがあまりに魅力的だと、闘争が起こらないからだ。

同時に互いに、あるいは片方は相手に対して、強く執着しているとより良い。「逃れがたい異物」でなければ、闘争よりも逃走の方がより自然だろうと考えられるからだ。この執着は、必ずしも恋慕である必要はない。だが別に恋慕であっても構わない。何であれ、個人へ強く執着しているというのは、逃れがたいという条件を作る上で好都合だ。

上述した「執着」という闘争の発生条件、近年「クソデカ感情」というレッテルに収斂される傾向のある人間関係ですが、それによって引き起こされる「闘争」のあるキャラクター同士の関係性が好き。理不尽な異物から逃れがたければ逃れがたいほど、時に何らかの犠牲を払ってでも「折り合いをつけ」なければいけないからだ。

この性癖の傾向が、私の中で一番強く出たカップリングが、FGO二部二章の主従関係。逃れがたい執着にどのようにケリをつけるか。このテーマがものすごく好き。

 

ただ、私が志向するのはあくまでこの「闘争」なので、同じようなカップリングにはまったフジョシ(人間関係オタク)との間に、わりと巨大な乖離がある。フジョシのツイートの中でよくみられる煩悶の種である「幸福」を、私は最初から志向しないからだ。キャラクターの幸福を志向するなら、この二人の人間関係を使って思考をしない方がいいとさえ思っていることがある。べつに二人の恋愛が成就してほしいとも思っていない。この人間関係が恋愛の状態にあるかどうかも頓着がない(恋愛であればそれはそれで見る)。

「闘争」の過程とその結果、お互いの存在にどう折り合いをつけていくかという出された結論が何であれ好きなので、それがハッピーエンドかバッドエンドかに拘りがない。

そもそもハッピーエンド/バッドエンドとは何か。誰の目線によるものか? 基準として極めて曖昧では? 一人は心底幸せだと思っていたとして、もう一人が不本意に感じていた場合はどうなるんだ。そもそもハッピーエンド/バッドエンドの二元論で物語のエンディングを捉え得るのか? そんな ことを 言って いると 友達ができないです。

しかもこうやって自分をカテゴライズしたところで、ここに分類できる人格は今のところ私のものだけだ。これは血液型占いで私A型! O型~~~~ってやってる中で、クワガタとか言ってる奴と同じである。規定の枠の中で自己のアイデンティティを表明するから、ああいう会話が成立するのだ。

 

わたし人間関係オタク、「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」(「闘争」)というテーマが好き。

 

 


蜘蛛の糸 by 筋少

*1:管見の限り、メインジャンルを変えた直後のオタクや、ジャンルにはまりたてのオタクがこれに言及することが多い

*2:ここでは「カップリングオタク」と呼称した方がフラットかつ正確であると考える。好きになるキャラクターの傾向を自己分析するオタクは、必ずしも男性同性愛のみを偏愛する狭義の「腐女子」に限らないからだ。