メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

女の肉体と健康

ra927rita1.hatenablog.jp

 

ほぼ一年ぶりに大幅な体調不良をやった、というか、やや現在進行形で、体調不良をしている。

年一から二の頻度で体調をイカれさせることがある。上述の通り、ブログでも体調を記事にしていたし、ブログを開設する以前は処方箋を貰いがてら、薬局にディスプレイされている笹に「治してください」と書いた短冊を吊るした記憶がある。体温計の電池は余力がある時に取り換えて下さい、ほんと、頼むから。

 

ところで体調不良をやらかしてから、長くてまぁ三日四日と尾を引くことはあるんですけど、それでも一週間も寝込むことってそんなにない。けれども今回の体調不良さんはなんだか根深いのか間が悪いのか、一週間経っても、体調がイカれている時にありがちな気怠さが抜けない。

私自身、日頃なまじ頑丈なばっかりに、自分の体調がヤバい時に、どうすれば治るのかということを把握していない。発熱をしている訳でもなければ腹痛も無く下痢もないので、病院で処方箋を出してもらにしたって、何を主訴にすればいいかわからない。なんかだるい、身体が重い、病院に掛かる前から不定愁訴じゃんっていうことがわかるので、回復してきた食欲と気まぐれな眠気に身を任せて、日がな一日を怠惰に送るなどしている。処刑*1まで、残り一週間を切っている。

それにしたってである。動けないものは仕方がないし、今朝の立ち眩みはひどかった。

立ち眩みというか、目が覚めて、立って、数歩歩いて、床に座る。そんな感じ。何? 

これまで気圧の高低によって自覚する程体調を左右されたことはなかったんですが、朦朧とした意識の中で聞いたニュースキャスターの「台風になるかもしれない」とかいうお言葉に深く頷きながら、これは超級の低気圧だから仕方がないと勝手に納得し、私は布団に戻った。眠り、眠り飽いたらスマホゲームをする。これまでもっぱらFGOだったんですが、最近第五人格を始めました。私が自主的に寝込んでいるベッドの側に置かれたケージで、ハムスターは元気に床材を掘っている。

 

そういえばハムスターもここ最近、体調が芳しくはなかった。ここ一か月で謎のくしゃみなんだかしゃっくりなんだかを悪化させたハムスターは先日、生まれて初めて獣医に行った。私もネズミを獣医に連れていくのは生まれて初めてのことだった。小動物、獣医に行く云々を飛び越えて墓に向かいがちなので……

向かった先の獣医からは、チップ材に対するアレルギーではないかと指摘された。獣医が言うからにはと思い立ち床材を新聞紙に変えてから、ハムスターのくしゃみは無くなった訳ではないが、その頻度と程度が目に見えて軽減したので、順当にアレルギーだったんじゃないかとも思う。

一方、弊ハムスターはジャンガリアンのメスなんですけれども、当初くしゃみなんだかしゃっくりなんだかでハムスターを獣医に見せてもまぁ不定愁訴で保険の効かない初診料をガッツリ持ってかれるぐらいだろうなと考え様子見しながらインターネットで検索を続けていた頃に、ジャンガリアンハムスターのメスさん、発情サイクルに併せてなんか知らんがくしゃみなんだかしゃっくりなんだかをするというインターネット都市伝説を見かけた。

改めてリンクを探そうとしたら見つけられなかったのでいよいよ私の幻覚なんじゃないかという話が濃厚なんですけど、連日しゃっくりもどきをし続けている訳でもなし、しゃっくり以外で何かの体調不良が見受けられるかという訳でもなし、餌をガンガン食べて床をほじっているので、体内で起こっている発情サイクルの一環だと言われた方が不思議と納得は出来たんですね。ちなみにメスのハムスターに生理というか、生理に伴う出血はないそうです。私も改めてハムスターを飼い始めて初めて知りました。

しかしメスが発情でしゃっくりするんだったらオスはどうなんだ。ハムスターのオスさんがパンパンに腫らした金玉を飼い主サイドが腫瘍と誤認して獣医に駆け込む案件がそれに値するんでしょうか、まぁ性のサイクルって大変だなと思います。

 

そういう訳で通院と投薬、床材の変更によって数週間前より大分マシになったハムスターの、しかし未だ微かに姿を見せるささやかなくしゃみなんだかしゃっくりなんだかを聞き流しながら私、布団に転がりつつ、そういえば自分のこの一週間経っても治らないクソクソ立ち眩みというか体調不良というかなんかよくわからない不定愁訴、生理前の案件なのでは?ということに、ようやく思い至った。

自分の身体のことだろ自分で何とか管理しろと言われましても、当方日頃生理で悩まされることはほぼ無い。故になんか変調をきたした時にどうあやしてやればいいかわからないし、大体生理周期も無月経ギリギリのところでようやく回っている感じなので、前回の生理が果たしていつだったのか正直記憶にない。その時にだけ存在を思い出すルナルナに準ずるアプリを見てようやく思い起こす程度。なので、喉元過ぎればなんとやらで、当然のように忘れるんですけど、思い当たる節もないのに急に電車に酔ってトイレに駆け込んで吐き戻したりする理不尽な体調不良案件等々、大抵生理前に起こっている気がするし、半年前に会った健康美にステを極振りしたような女も、生理前には理不尽な嘔吐をすることがあると言っていた。生理前の突発的な体調不良主に理不尽な嘔吐という所にシンパシーを覚えた私は、この案件について「吐き戻す女たち」とかいうようなタイトルでブログのエントリーにしようかと思ったが、その後まぁ恙なく健康に過ごしてしまったので、喉元過ぎれば何とやらと、すっかり忘れていた。

 

体調に思うところなく動けるのってほんと、有難い。ですので未来の私、このありがたみを忘れず、早寝を心がけて下さい。主に根を詰めて同人誌の原稿を作ったりするな。イベントに出る予定もないのにいたずらに原稿作業をするな。未来の私へ 本当にお願いします。特に体調崩す寸前の夜更かし、蝋燭の最後のともしびが一際輝くように、マリオがスターを取ったかのような集中力を発揮してしまうのでちょっとしたシャブですが、ほんと、アレ、やめてください、それは寿命の前借りですし、ただでさえ二か月から三か月に一度、謎のシステムで人知れず、私にもどうしようもない所で、勝手に体調がバグるので。

 


赤ずきんと健康

*1:名目上の研究発表

界隈でムラハチなので熱心な感想乞食や念入りなエゴサをしても感想見つからないしライフステージ的にも同人ムラハチ案件で荒れてる場合じゃないけど懸賞に応募するのを止めた九龍寨城公園に行った時の感想を記録するよ

 

 

東方、ゆっくりしか知らないんですけど、リツイートで回って来たこの叫びに一つの極北を見てしまって、私は泣いた。

 

11月24日に頒布した弊同人誌のことを、延々と話題にしています。

頒布以降、当該関係性に関するいかなる妄想も全てその同人誌に回収されていく勢いがあって、個人的には一種の傑作を生みだしたといっても過言ではない自意識。

その一方で、驚くほど、内容のフィードバックが無い(といっても他人様に表紙絵を描かせているので、日頃から考えると、驚くほどフィードバック頂いているところからのスタートではある)。

まぁ小説本って、そんな即効性ないしなって思って、頒布してから、同人イベントが終わり、見たくなくてもタイムラインに他人宛ての感想が並ぶ時期を見計らって、「ところで11月24日の同人誌読みましたか!? 感想文をください!!」っていうフリースタイル乞食をしているんですけど、なしのつぶてです。

この状況を受けて、やっぱり同人誌っていう、実態を伴った紙と言う媒体がいけない。これからの時代は電子よね!などと、インターネット上にほぼ全文を掲載の上、内容に関する選択式アンケートへのリンクを、全文掲載のウェブページに設けて、良かったらアンケート協力してくれや!と威勢よく持ち出した策は良かったと思いますし、一件ご回答もいただけました。

今のところ、「Q1.11/24頒布当該の同人誌を読みましたか?」っていう質疑に対するご回答、「読んでいない」が100%。

私が好きだからマルチエンド方式にしたんですけど、そのマルチエンドについて、「どのエンディングを選びましたか?」という質疑に対し、ご回答「その他」が100%、自由記述にコメントまで頂いてしまった。「老婆心ながら、この時期にアンケートを取るのは適切ではないと思います。作家さんたちは今原稿で忙しいと思うので……」(意訳)

 

イエーイ!メッチャムラハチ!

 

11/24弊同人誌、私は大好き、自作が大好きという幸福な状況にあるにも関わらず、私、思うんですよ、私が書かなければ、あの話、より多くの人間に読まれたんじゃない!?

言い換えると、一字一句同じ文章を、他人が描くなり書くなりして発表した方が、余程多くの人間に読まれ、そして多くの人間の思考を変革し、私が見たいタイプの話を書いてくれる人間を増やせたのでは!?

いや、ほんと、どうすればいい?

どうすればこのテーマ、というのは私が発行した同人誌だとか、そうでなくとも、私が思うような当該関係性についてなんですけど、それについて、(カップリング)語りと一般に称されるような類の話を、どうすれば他人と出来る? どうすれば、他人に声を掛けても問題の無い人格として扱われる? どうすれば、他人から声を掛けられるような人間になるのか? 

じゃあこういうブログ記事書いてないで、アカウント転生しろよ! っていうのも、ごもっともなんですけど、アカウント転生しても、やっぱジャンル移動してないとダメなものはダメらしいですし(経験済み)、今こうやって私が苦しんでいるこの瞬間も、他人はこういう話、他人としてるんだろ!? 〇〇さんの(カップリング名)の××が最高だったとかいう話、同じ界隈でそういう話を進んでしてくれるような、他人としてるんだろ!?!?

作成した例のアンケートにいいねしたお前、一向に回答してこないがどうなんだ? フォロワーもツイ廃ばかりではありませんし忙しいんでしょう。「■■さん(私)の旅行のファンです!」とか抜かしよるお前、お前がフォローしている、旅行よりも、お前が数年来尊いと事あるごとにツイートしてる(カップリング)の二次創作やってる時間の方が普通に長い私のアカウントは、一体どういう風に映っていたんだ。「〇〇さんの(カップリング名)のここが最高で~~RT」等日頃熱心にコメントするお前のアカウント、稀に私のツイートをリツイートする時は概ね無言なのは何故だ?

四六時中アカウントを見て自分の創作を読んで毎秒感想を言えと思っているかというと、別にそこまで求めはしないし、他人から感想を貰ったら貰ったで嬉しいんですけど、他人の反応を見る為だけにやっている訳ではないのは確か。

一方で、他人がその感想だとか、サークル参加だとか、感想絵だとか、交流とか、諸々の好待遇を得ている中で、こうも孤立することってある? あるぞ!

 

囲いなんだか友達なんだか知らんがフォロワーと「今度〇〇飲みしましょ~」等というリプライをし合いながら、生き生きと同人活動をしている人間を見ると、どうしようもないやるせなさを感じる。

11月24日に頒布した同人誌に話を戻すんですが(戻すな)、当該同人誌を再録した際のお知らせツイートにリツイートが二件ほどあり、オッこれは何かしら内容への言及あるかな~~~~と思って見に行ったら、すげぇ同人楽しまれてる界隈の方のアカウントでいらして、「二次創作ってすごい、素敵な絵と文で寿命が伸びる」「今日一日色んな人に拙作を褒めて貰えてうれしい」「原稿頑張ります!」あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!! 

いや、当人に一切の罪はないんですけど、しかし、何をもって罪とする? 私が悪いのか? 私が何をした? 私は、何故ここまでうちのめされ続けなければいけない? 何でこんな厳しい感情を無意味に持ちながら、こうも長らえなければいけないのか? ジャンル移動したい! しろよ! 実際、弊同人誌を頒布して以降発表した文章はないので、ほぼジャンル移動しているようなもんじゃないか? それにしても、ほんと、11月24日に頒布した弊同人誌を読んで、何か感想を持った人間、本当にいますか? Twitter経由で感想を得られることがほぼ無い(おそらく交流に不適な人格を持っているからだ)ので、この際Twitterアカウント消しますか!と思い切ろうとしましたが、直近のコンテスト参加にあたって、SNSアカウントをそういえば登録してエントリーしたので、暫くは消せないなと思い直しました。

 

普通に同人辞めなよ、対外的にもアレだし、人生ステージ的にも同人やってる場合じゃない。

一年先の身分とか一年も待ってくれない修士号の行く末とか、即落ち二コマした先の一次面接とか未だ定まらない研究の射程とか、出費する一方で減り続ける口座残高とか、諸々のことを考えたくなくて、何も思い出さないエッセイを読んだり(さくらももこの『もものかんづめ』辺りはメチャメチャ面白かった。ままならない過去や所謂黒歴史を以て自分をこき下ろし笑いに昇華する手法が見事であるなぁと思った。記憶を掘り起こすにあたって確かに血が滲んでいるだろうに、それを血と思わせない雰囲気がある。『さくらえび』は同人生活を楽しんでるフジョシの趣きがあって普通に地雷だった)、後は懸賞サイトを見ては、応募できそうな懸賞を探している。

その中で、「私の忘れられない中国滞在」とかいう、日頃ブログで書いているような記事を元に、応募できそうなトピックの懸賞があったんですけど、ここで一つ私が思ったのは、「香港は中国なのか?」ということ。

そもそも国家自体が自明のものではなく、国境は恣意的なものに過ぎないので、どの都市でも言おうと思えば言えることだとは思うんですけど、果たして香港とは中国なのか? 懸賞の特設ホームページを見るに、後援に中国大使館とかついてるし、やっぱりここで求められているのは、中国本土でのエピソードなのでは? 

しかし例えば、ここで台湾のエピソードぶち込んだら、ほんとお門違いだわってなるというのは容易にわかるんですけど、香港(そしてマカオ)のエピソードって、どうなんでしょう。

領域的には間違いなく中国、経済的な依存関係、政治的には「高度な自治」、異なる歴史と多重に重なり合う心性、そもそも「中国」が包括するエリアが広いし、そうでなくとも、以前の受賞者の雰囲気とか見てるとやっぱりなんかこう、大陸での事柄を求められているんじゃないかなぁと思って、そこに応募するのは止すことにした。

 

「忘れられない中国滞在」というか、香港への滞在、しかも滞在っていったって、四日間かそこらの個人旅行なんですが、よく印象に残っているのは九龍城砦だ。というと、語弊がある。

金田一少年のアレとか九龍レトロとか、ウェアハウス川崎の内装とかクーロンズゲートとかブレードランナーとかで有名なあそこ*1は、1994年に既に取り壊されている。

私が行ったのはその跡地に建てられた中国式の庭園、九龍寨城公園だ。

 

九龍寨城公園の最寄りはMRT樂富(Lok Fu)駅だ。そこからニ十分ぐらい歩く。

ミニバスを使うとより接近できるらしいが、当時の旅行の同行者から「ミニバスでは広東語しか通じない」という情報を得ていたので、歩くことにした。八月頭のことだった。

 

道中クソ迷った。いつものことなんですけど。

 

Googleマップの道案内によると、樂富駅から九龍寨城公園に行くには、

①まず駅を出て、

②駅前にある筈の橫頭磡東道(Wang Tau Hom East Road)を西に進み、

③聯合道(Junction Road 広い道だ)を、東頭村道(Tung Tau Tsuen Road)にぶつかるまで南下。

④東頭村道を道なりに進んで行けば

⑤九龍寨城公園 の筈なんですけど、

 

①から②への段階で躓いた。嘘でしょ!? 未だに何故ここで躓いたのかが分からない。

だって現地で撮影した地図の画像を見ても、Googleストリートビューを見ても、樂富駅の駅前にあるバスがたむろするロータリーを右手に進めば、②の道につながる筈なのだ。

しかし私の記憶の中にある樂富駅出口は、バスのたむろする円形のロータリーがあり、柵があり、その向こうにはなんだかもりもりとした木々と、その向こうに開けたグラウンド(おそらく樂富遊樂場)が見え、アッ、ここに入っても問題は何ら解決しないな、という雰囲気があった。いずれにせよロータリーから逃れるには柵を越えなければいけない。道なりに歩くと行きたい方角とは反対側の富美東道側へ誘導されてしまう。今自宅でGoogleストリートビューを覗き込んでも確認できない、およそ有り得ない景色が記憶の中にある。怖。何かに化かされてたの?(時々ある)

今や私の記憶の中にしか存在しない、橫頭磡東道と接続していない樂富駅前ロータリーをぐるぐる回っている内に、雨が降り始めた。

夏場の香港、亜熱帯気候らしく、十分前後スコールのような大粒の雨がザアッと降ったかと思うと、雨雲の欠片もない快晴が広がったりするんですけど、樂富駅を彷徨っていた時の気候は、携行していた折り畳み傘をさすかささないかを躊躇う程度の小雨。それがじとじとと降り続き、体感湿度は120%までぶちあがっていた。

当日の私、カワイイ刺繍の入った涼し気な藍色ぐらいのシャツを着ていたんですけど、それが自前の汗で、さながらドラマのクライマックスを迎えた時の土砂降りに降られましたかっていう勢いの、ぐっしょりした群青色になっていた。

 

このままロータリーをグルグルしていても普通に埒が明かないので、この際九龍寨城公園に行くのを断念することも考えながら、駅と直結しているショッピングモール・樂富廣場(Lok Fu Plaza)に入った。

魚臭い地下の生鮮食品売り場からエレベーターで上昇すると、いたって普通のショッピングモールがあった。ジャスコとかイオンとかアピタとか、そんな感じの風情。やっぱ空調が効いているところは最高。あと時々椅子があるのも最高。空調の効いた中をぐるぐる回って、ホテルが貸し出してくれたポケットWi-Fi(しかしこれを使ってると異様に電池の減りが早かったので、使うときしか繋がなかった)を元にグーグルマップを起動、現在地から九龍寨城公園へのアクセスを試みつつウィンドウショッピングをしていた。

小規模倉庫にも似た店構えの、地元密着感が溢れた文具屋に、キャンパスのパチモンノートとか、ミツビシのパチモン鉛筆とか色々あって、非常に興味深かったんですが、結局、現在地から聯合道までの出方はわからないままだった。なので一階インフォメーションセンターの女性に聴いた。

九龍寨城公園までの道のり以外でも、香港旅行中、しょっちゅう一階インフォメーションセンターの女性に、道を聞いていた気がする。だって店舗の中に入ると涼しいし、香港、場所にもよりますが、なんか色んなところをしょっちゅう工事してらして、普通に道が分かりづらいというか、どこも類似の景観をして、どの道見分けがしづらいので、いとも簡単に方向感覚を失うし、よく迷った。私の方向感覚がイッちゃっているのと、気温によるデバフが掛けられている可能性も高い気はする。

インフォメーションセンターの女性は快く、指さしも交えながら、英語で道を教えてくれた。彼女に言われた通り二階のガラス戸を出ると、目の前に広い道があった。程なく聯合道と書かれた標識を見つけ、私は心から安堵した。その頃には、駅前をうろついていた時に降っていたあのジメジメした雨は止み、熱帯の太陽が青空に燦燦と煌めき、殺意がギラギラと輝いていた。

 

道中、歯抜けの爺さんに道を聞いた。ランニングシャツと短パンという出で立ちで、腰を曲げて登場、立つという動作の為に身体を酷使し、小刻みに震えていた。

特に海外で道を聞くような時は、カップルと思わしき二人連れに道を聞くように心がけている私が、何で単独行の震える爺さんに道を聞いたのか、思い出せない。

会話イベント発生までのルート取りは諸説あるが、兎も角当時の私は爺さんに「九龍寨城公園はこっちの方向か」と尋ねた。実際はもうちょっと力なくやる気もなく元気もなく、「カオルーンウォールドシティパーク……?」ぐらいの語気だったかもしれない。

爺さんは目を眇めて私を見遣った後、「あっちだ」と行く先を指さした。お陰で聯合道逆走という最悪のルート分岐をせずに済んだ。

香港旅行中、何人かの爺さんにも救われながら命を長らえていたんですが、今でもあの爺さんのことはよく覚えている。思い返せば思いのほか意識が朦朧としていたこともあり、きちんと謝意を伝えられたかどうかも記憶にないが、今でも感謝している。ありがとう爺さん。

 

聯合道を南下した。

私の九龍城砦宮本隆司の写真展からなんですが、往年を偲ばせる画像や記録を見るにつけ、往来する飛行機、密集する人間人間、人間!という、スゴイ人口密度と活発な雰囲気を感じていた。しかし一方、九龍寨城公園の道中は、いたって静かなものだった。

公園を目指す前に、バード・ガーデン(九龍太子園圃街雀鳥花園)にも立ち寄ったんですけど、界限街周辺とかも、めちゃめちゃ普通に住宅街。 世界史赤字ではないけど、太字ぐらいの地名ではあるんだよなぁと、勝手に感慨深くなりながら歩く私がなんかもう、超不審者。

だって学校のグラウンドとかあって、町内会の看板とかあって、軒先に自販機置いてる床屋が水を撒いてて、その中でどう見ても旅行者の出で立ちをして歩いてるので、なんかもう、露骨に不審。

京都伏見高等学校(架空)に思いをはせながら、京都伏見稲荷を背にその周辺を歩き回ってる時に感じた申し訳なさ、生活空間を犯しているという侵犯の意識をひっきりなしに感じていた。

 

聯合道沿いは、界限街よりも、一層鄙びていた。

老朽化しつつある団地が立ち並び、物音ひとつしない工事現場があり、学校があり、施設があり、ひび割れた舗装道路を縫うように、木の根が伸びていた。人影はなかった。

文章化にあたって改めて調べたら、九龍寨城公園よりももっと南下した所に地球の歩き方にも乗るようなショッピングモールがあるので、単純に場所と時間が悪いという説もある。

 

urahk.com

 


廟の境内でラジカセをお共に麺を啜っている青年を横目に、東頭村通りに入る。そこからはすぐだった。

九龍寨城公園は中国式の庭園だ。清代の南京だとか、長江流域で流行っていた庭園様式を模している。元あったスラムをクリアランスする度に政庁は公園を設けており、賈炳達道公園と併せて、今ではサイクリングコースとかもあるわりと広めの公園になっている。

心なしか鬱蒼と茂る木々の隙間から、耳慣れない推定セミの声がこだましていた。先程まで青天に燦燦と輝いていた殺意も心なしか翳り、一雨来そうな雲が立ち込めたなと思ったころに、小雨が降り始めた。

公園内で雨に降られるという最悪のシチュエーションをゲットしながら、既に木々がもりもり、所々に公衆便所と遊具が配置される公園内に入りながら、眼鏡を濡らしつつ暫く移動すると、立派な白亜の門構えが見えて来た。

九龍寨城公園と書かれたその門を熱心に一眼レフで撮影するアジア人の先客が、私と入れ違いに公園を後にした。話してはいないが、多分日本人だ。

かくして門をくぐり公園内に入ってから、立派な中国風建物(恐らく清朝時代の衙門を再現した建物)の軒先で雨をやり過ごせるようにはなったが、如何せん湿度が激しく、またも不快指数が爆上がりしていたので、公園に入ってすぐのところにあるちょっとした売店で、虹色のアイスキャンディーを買って、軒先で食べた。その内に、雨脚は徐々に弱まっていった。

 

九龍寨城公園の内部は、天気が宜しくないということもあり人気はなく、閑散としていた。

所謂中国庭園な建物は、所謂往年の九龍城砦的な違法な雰囲気は欠片も無い訳だが、園内には、往年の九龍城砦を偲ばせるちょっとしたミニチュアとか、ちょっとしたパネル展示があった。

パネル展示の外にも、元々は役人の宿舎か役所のブースのような使われ方をしていたのだろう石造りの衙門の小部屋で、往年の九龍城砦を偲ばせる動画が上映されたり、音声が流されたり、AR技術っていうんですかね? ブース内に示されている足跡に足を合わせてカメラに映ると、映像の中に映る私の周囲に、所謂九龍城砦の内装がワッと表示されて、肉をちょん切ってる音声とか、子供が遊んでいる音声とか、あと沢山の生活音と、ジェット機の音が流れてくる、そんな映像アトラクションがあったりした。園内に人影はそんなに無く、出入口を暗幕で覆っている小屋の中はどれも湿気ていて薄暗かったので、若干の恐怖を感じた。

 

特にこれといって変わったことはなく、雨が降ったり止んだりしているなかで、私は恙なく見学を終え、いくらかの人々とすれ違いながら、順路に沿って中国庭園を散策し、何らかの宇宙観を表しているらしい庭石を横目に、東頭村道に出て、そこから、来た道を遡って、駅まで戻った。

既に閉じた幕、終わった一つのものを、目の当たりにした心地だった。

宮本隆司の写真展から、延々憑りつかれていた「異物」としての九龍城砦への関心が、最後、何事も無かったかのようにある庭園の中の緑を前に、エンドマークをつけられたような心地で私は、狐につままれたような白け顔のまま、帰路についた。

 

実際、現代の香港における大陸中国との対峙であるとか、九龍城砦の跡地を中国風の庭園に変えたことについての中国側の思惑*2であるとか考えると、九龍城砦云々というのは、全くエンドマークが付きようのない地続きの問題であって、ここでエンドマークがついたのは、過去に存在していた概念に対する、私のちょっとした熱狂とか、ちょっとした執着だ。

 

エンドマークをつけたい!

 

界隈での交流や所謂同好と言われる人間との気兼ねない交歓に対する憧れ、自分の望むような評価を与えられる他人や、自分の憧れるような交歓を楽しむ他人に対する憎悪、全てにエンドマークをつけたい!

そしたら感情が少し落ち着いて、私は私のしたいように振舞い、したいように情報を得て、見たいように他人の創作を見て、その過程で垣間見える他人同士の交歓を葉陰から憎むこともなく、好きなものを楽しく見られるような気がする。

界隈のタイムラインを綺麗に整地して、緑あふれる中国庭園にすれば、異郷のセミの鳴く音を聞きながら、何かが変わるでしょうか、ねぇ!

 

 

 

 

*1:第二次世界大戦後、元々領土問題で決着がついていなかった九龍城砦には沢山の難民や貧民が住み着き、小便で固めたと言われる曰く付きコンクリートによる高層違法建築群が仕上がっていた。どう見ても巨大な違法建築は各方面にインスピレーションを与え、取り壊しが決まり廃墟化してからは映画の撮影にも使われたりした。

*2:Seth Harter(2000),"Hong Kong’s Dirty Little Secret: Clearing the Walled City of Kowloon",Journal of Urban History,Vol.27(1), pp.92-113.

上司の眠る墓

 

東野圭吾人魚の眠る家』(幻冬舎、2015年)を最近読んだんですけど、作中の主人公の一人である薫子の主治医で、ほんのりとした関係の相手である精神科医・榎田が文中で初出した時、私は辞めたバイト先の上司を思い出した。上司と私の間には親子以上の年齢の隔たりがあり、仄かな思い出は皆無である。

上司は、榎田のような人間に対する深い洞察力・観察眼に近しいものを、恐らく持っていたと思う。しかし榎田のような細やかな心配りとは、およそ無縁の存在だった。研究者だったからだろうと、私は偏見を持って勝手にそう思っている。

文理問わず研究者という肩書を持つ人間、博士号を持っていない人間にもそれなりに「感情」が備わっていること、忘れがちではありませんか?

 

 

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)

 

 


過去に小規模な団体で、事務員のアルバイトをしたことがある。
主な業務はパソコンへのデータ入力とか、資料作成とか、そんな感じだ。
一通り聞いたところまぁヌルイ業務で、勤務形態はコアタイム無しの任意、「業務自体はキーボード操作が出来れば可能」という文句に釣られた私は、そこで先んじて事務員を勤めていた学科の先輩の口利きで、事務所での「説明」を受けに行くことになった。

 

そこに居たのが、上司だった。

上司は、社会人経験を持つ研究者であった。

研究職在職による論理を用いテトリスのように対象を理詰めしていく手管に、社会人経験による法的知識と経験則を搭載した存在だった。なお、研究者には研究以外に関心がないタイプと政治力に長け学内政治や派閥闘争を繰り広げるタイプが居るが、上司は間違いなく後者に属するタイプだ。

 

上司との最初の口頭でのやり取りは、「人相が悪いね、マスク外したら?」だった。
説明会を前に喉風邪をひいていた私は、咳エチケットに配慮し、マスクを着用していたのだ。

「基本的にここでは、皆さんに自分の裁量で、自由にやってもらっています」

この辺りから、何となく嫌な感じがしていた。
私は先輩がパソコンのデータ入力とか資料作成とかいうヌルい仕事だと言うので遊ぶ金欲しさに来たのであって、給与が高くて自己裁量がでかい分自己責任もデカイという、ハイデューティーハイリターンな業務をしに来た訳ではない。それに今日は取り敢えず説明だけって先輩、言ってたしな、ウーン

「採用。」

私は事務員になった。

 

上司との最初のメールでのやり取りは、「世の中の99%の人が、メールの文中かその末尾に署名をします、そうしないとわかりませんからね」であった。

何が何だかわからない内に晴れて事務員になった私が、業務用のメールアドレスを作成し、それを周知する為に、全体に報告メールを送った時のことだった。

確かに名前を書くのを忘れはしたが、注意の仕方が厭味である。

上司は、全体的にそういった人間であった。

確かにこちらに非があり、上司の言い分は正しいが、指摘の仕方が厭味な感じ。

何が厭味って、こう、嫌に直截が過ぎるというか、妙に持って回ったというか、あの嫌な感じを、適切に形容してくれるような言葉を、私は未だに持っていない。

 

上司は人柄に多少の問題はあったが、所謂パワハラだとかセクハラだとか、何がしかのハラスメントをするような上司では無かった。強いて言えばモラハラを当てはめることはできるのではないか? と、書き出しながら思っている。モラハラだったのではないだろうか? 回顧し書き出すって大事な作業ですね!

兎も角、

上司は人柄に多少の問題はあったが、驚く程有能な上司だった。
自分で話していながらにして状況を呑み込めていない穴だらけの私の説明から、上司は概ね常に正しく状況を理解し、私に助言をした。その後、「私はわかったけど、皆さんにはわからないだろうから、資料をきちんと揃えて、もう一度頭から説明して」と言う。

よって私が事務員になってからの週に一度の全体会議(といっても数人だ)は、私の説明のリテイクによって数十分延長したが、会議時間も給料の対象なので、他の事務員から渋い顔をされたことは一度も無かった。

バイトは時給制だった。言ってしまえば手が遅ければ遅い程儲かる仕組みだったが、エキセントリックな性格の上司と求人を縁故に頼った小規模さ故、それを頼みにずるずる仕事をするような輩はそうそういなかった。結果として手の遅い私は結構な額の支払いを受けていたが、事務員から苦言を呈されたりしたことは一度として無かった。

今思っても、職場の人間関係は、意外なほど良好だったと言えるだろう。互いに過不足無く必要な情報を伝達し、過剰な干渉をすることなくビジネスライクな付き合いだった。

 

上司は人柄に多少の問題はあったが、団体の長として十分な義務を果たしていた。

理屈の通らないクレームが発生したような時は、不慣れな事務員に代わって応対を行い、後の根回しまで手ずから行った。

 

上司は人柄に多少の問題はあったが、存外に懐の深い上司だった。

私が完全に不注意からの巨大ミスを仕出かした時、まぁ申し訳ないがこれで晴れてクビだろうと予測していた私に、上司は言った。「ミスをするのは仕事をきちんとしようとしている証拠ですから」と。

 

上司の人柄に多少の問題があるといったって、「厭味っぽい」とか「揚げ足を取って来る」ぐらいのもので、先んじて事務員をしていた方が評する所によると「目を瞑ればやっていける」「そりが合わない人は徹底的に合わない」といったぐらいのところだった。

私は上司について、小姑を体現したようなあの性質ではまず孤独死だろうと踏んでいたが、上司は既に家庭を築き上げ、育て上げた子供も独立し、事務員を雇って副業を回しつつ、悠々自適な暮らしをして居る旨を後から聞かされた。

 

事務員をしていた頃も、私は常に「いつ辞めるか」を迷い続けていた。

元々労働に向いていない性質なので、遊ぶ金欲しさにアルバイトを始めてもすぐ辞めることを夢想し始める。

それに、立ち居振る舞いからメールから発言から、一挙一投足に細かくケチをつけられる暮らしは、中々精神に来るものがある。

そういえばブラック企業研修でもこういうことするんだっけな、と、私はインターネットの浅瀬で見た知識を思い返しながら、鬱屈と過ごしていた。

だいたい私、覚悟をして事務員になった訳でもない。採用された日だって、業務内容の説明をするからと先輩に言われ、説明を聞くつもりで行ったのだ。

その辺は恐らく、入れ替わりで長期留学に行った先輩の手練手管だと思うが、結果金の出る罠にハマった所の私は、ファイルに入力する複数データの内一つの数値を空目して誤り、上司「これが飛行機の整備だったとします」。一斉送信のメールの文面に誤字をし、上司「ネジの一つでも致命的な事故が発生するのです」。うるせぇこれは飛行機じゃねぇと苛立つ気持ち半分、ああ私のミスだな、それならばミスをしまいと意識をしながら落ち着いて仕事をしようとして、しかしミスってこう、減らそうとすると逆に増えたりするじゃないですか。上司「Re:これが飛行機の整備だったとします」うるせ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!しらね~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!上司「しかし手早く動く点は称賛に値すると思いますよ」あっ、そう? エヘヘ

 

こうして、上司はメーデー(遭難信号)を連発するポンコツ飛行機こと、常にいつ辞めるか迷い続けている私を操縦していたように思うが、私と上司の相性は、致命的に悪かったのではないかと思う。何せ散らかしていくタイプの人間と、ペンの位置が五ミリ動いたら気付くようなタイプの人間だし。

それに、一任された事務の業務もやはり、初期に想定していたような楽な仕事ではなかった。分野が多岐にわたり、量が多い。慣れるまでが大変であるし、そもそも土台の人数が足りていない。この人数でこれだけのことを回しているのかお前たち、みたいな。

こうして、遭難信号を連発しながら低空飛行をして居る新米事務員こと私は、週に一度の全体会議が近づくと胃が重くなるようになった。また公然の場で同じ説明を二度以上繰り返すという辱めを受けるのである。こんなんならオウムになった方が余程マシだ。しかし辱めと言ったって、悪いのは上手いように論理だてて説明が出来ていない私であり、上司はここで繰り返させることで、説明の練習を積ませているつもりなのだろう。

頭ではわかっているが、感情が邪魔だった。人間、論理だけで生きていければ、それだけ楽なことはないのだ。

 

当時の私、ツイッターで「ブラックアルバイト!辞めるには?」というようなトピックが出たら必ず目を通したし、隙あらば「バイト 辞めたい」で検索する日々を一年以上継続していた。

何回か「ここで唐突に辞職メールを送れば、自由の身では?」と考えた。上司が遠出で暫く全体会議に出席できないとなると大喜びし、そのまま帰らぬ人になることを祈った。そうすれば団体が自然消滅して、辞意云々するまでもなく、自動的に辞めるしかないだろうなと期待してのことだった。しかし上司は元気に帰って来たし、辞め時を延々と悩み続けながら、私の勤務も続いた。

 

そもそも、そりが合わないなら合わないで、早めに動くべきだったのだ。

業務開始一か月ぐらいで「慣れた?」と上司に聴かれた時、お前様と人柄が絶望的に合わないしストレスなので辞めます! と、元気よく答えればよかったものを、「アッハイマァ……」とコミュ障限界な返答をしたばっかりに、半年たつと業務にも慣れ始め、前任者である直属の先輩(紹介者)が高飛びをしてしまった以上、後任が居ないことは、労働者である私の責任の範疇ではないことを、頭ではわかっているとはいえ、ここで私までもが高飛びを決めたらば、今の私に割り振られているフルタイムか?っていう量の業務を、同様に仕事を抱えている、私より数か月前に雇われたらしい学生事務員に、押し付けることになるのでは?

それに、このエクセルファイルや諸々のファイルを時間をかけて弄っていれば弄っているだけ、お賃金が出るのだ。

しかも、この形態(事務)の業務経験は、これから先、就職したような時にも役立つだろう。ここで社会人の練習をするのだ、金も出るし。

 

そうこうしている内にずるずる業務が続き、私は徐々に古株の事務員となっていった。

古株となったところでそんなに年期が入っている訳でもない上、お前どこに目ぇ着けてるの?というタイプのミスはよくやらかす。

上司は常に飛行機の例えを用いながら、作業をする前に一呼吸置くように(好意的な解釈)という教示を繰り返した。

 

今思っても、恵まれた環境だったと思う。

給与面といい待遇面といい、「キツ」というのは感じたが「理不尽」は感じたことが無かった。

強いて言えば事務員が少ないぐらいだったが、私以外の事務員は粒ぞろいだったということもあってか、難なく物事をこなしていた。

私は変わらず、給与を貰いつつ事務員のインターンシップをしているつもりで業務に勤しんでいた。ミスをしては小言を貰っていた。

 

そんなルーティーンも二年目に差し掛かる頃に、私は退職を決断した。

理由は上述の全ての条件を元に得られる給与や経験や待遇や、それら全てを合算しても尚、ストレスが大きいと判断したからだ。

 

退職を決意した日は、全体会議の日でもあった。ミスド祇園辻利とのコラボ抹茶スイーツが、期間限定で発売されていた。

相も変わらず全体会議でミスをお詰め頂いた後に、あーっ今週もお言葉を頂戴したわぁ~と思いながら、せいせいと私はミスドに入って、抹茶のポンデリングを食べた。

おいしくなかった。触感だけした。

小規模団体の事務員で、古株になりつつある。他のアルバイトの宛てもない、私の仕事の後を引き継ぐ人員は今のところ居らず、多分ここで私が抜ければ、私より数か月前に雇われ、私がここでミスドを食べるより半年前に辞めた事務員の後任をしている、あの学生事務員にしわ寄せがいくことになるだろう。上司のお話やお言葉は何かと回りくどいようで直截が過ぎ、私からすると厭味な感じではあるが、上司が、有能な上司であることは確かだ。このしんどいような状況は、ひたすらに私の感情と、詰めの甘さからくる対応のまずさが問題であり、これがドラマとか何かだったなら、私はここで奮起して、何かしら秘められた才能を開花させ、ガン詰め上司を見返すところかもしれない。

だが、私にとっては、せいせいしながら食べるストレス解消の為のドーナツの味が、わからないことの方が問題だった。

 

常に辞職についてイメトレをしていた成果もあり、辞意を伝えるメールから辞職の日取りが決まるまで、これまでの一年の煩悶ぶりが嘘のように、トントン拍子で決まっていった。

 

私は今、就職活動をしている。地獄か? 何が志望動機だ馬鹿野郎。

そもそも働かずして金が欲しいタイプの人間なので、わたしが一番きれいだったときを会社なんぞに捧げて堪るかといったところだ。

今が一番身体が動いて何をしても楽しいだろうに、なんでわざわざ志望動機まで誂えて、こんな瑞々しい肉体を、オフィスとかいう棺桶に週五で並べねばならんのか。

しかし現代日本のこの現状では働かないと金が発生しないので、それは致し方ないとして、大事なことは一つだ。

具体的にいくらまで貯金するとか、或いは市場価値の高い人間になるとか、どっかに移住するとか、家庭を持つだとか、様々な展望が人間にはあると思いますが、私の力点はアルバイトの時から変わらず、私がおもしろおかしく生きる為というところにある。

なので、私はそこを基準に、程々に金が稼げて身分が保証されプライベートが確保されるところという条件で、この際職種を問わず仕事を漁っている。これから先もそれを軸に生きていきたいと考えている。

後は、思う所としては色々あるんですけど、環境が揃っていて待遇が良くとも、結局人間が占めてくる割合って(ある程度は我慢が効くとはいえ)めちゃめちゃでかいなというのは改めて実感したので、人間の雰囲気や、場の雰囲気らしいものを少しでも見ようと、各々のオフィスに足を運びながら私、やっぱり辞表の書き方を調べている。緊急時に全力で走れるように、日頃のストレッチを欠かす訳にはいかない。

 

折に触れて今でも、上司のことを思い出すことがある。

多少のストレスと共に私の脳裏をよぎる上司は、時にメールを返す前に一呼吸止めてみることや、或いは人のしないような経験を敢えてすることで、自分の話題の幅を増やすとかいうことの講釈を垂れては、頭蓋骨の裏に消える。

 

結局上司が、素で私の為に指導をしていたのか、私との相性が悪く、単純にキツめにあたっていたのか、あれはモラルハラスメントだったのかどうか、等、今となっては諸々のことが、私の解釈次第といったところなんですが、従来務めていたアルバイトでは、辞職を思い悩みながらも結局、外的要因(生徒の卒業・店の閉店等)が起こるまでずるずる居続けてしまう傾向のあった私に、初めて「自発的な撤退」という決断をさせたひとつの場であるという点で、上司は、今では感謝すらできる対象なのかもしれない。

辞職して大分日が経ち、あの厭味な感じのお言葉も、もう長らく聞いていない。

どこかで安らかに眠ってくれていればいいと思う。

 

「一生に一度は見たい絶景スポット」ことウユニ塩湖に、塩以外の何があると言うんですか?(私のトラベルストーリー)

 

ウユニ塩湖には、塩があります。

あとは開放感と、ここでもし何かあったら、私はもう祖国の土を踏むことはないだろうなぁという、ぼんやりとした絶望に似た恐怖。

 

EFブログコンテストに応募するにあたって振り返ってみると、私の海外経験は八割強の個人旅行と、二割弱の留学経験によって構成されている。これらを踏まえて私は、国外に出ることは大変面白く、かつ有意義な経験であると思う。

挨拶すらマジで覚束ない異世界に放り出されると、うっすらと漂う生存の危機に段違いの解放感を味わうだけでなく、紙一枚程度の所まで来ている生存の危機に際して、感覚が著しく研ぎ澄まされる(ような気がする)のだ。

アウグスティヌスが著書『告白』で人々に示した理想的な生き方のように、100%目の前にあることだけを考え、感じることというのは、母国語が通じる世界では中々に味わえないものだと思う。だって片手間であらゆることがわかるしね(個人の感想)。言語って凄い。

 

勿論自分のスケジュールやその時々、身辺等諸々の状況というものもあるので、人間生まれた以上、是が非でも一度は海外経験をするべきだとは言いませんし、私が元々海外や異文化への関心が強かったように、個人の趣味や関心の傾向というものがあるので、渡航するか否かの判断はほんと、人それぞれなんですけど、

目の前に行く機会がぶら下がっており、それを目の前にしてさぁいこうかどうしようか迷っている人間に向かっては、行けばいいんじゃないかな、楽しいし。という、実に無責任な背中の押し方をすると思います。「一生に一度は見たい絶景スポット!」「死ぬまでに見たい景色〇選!」みたいな感じで。

 

ところで本記事は、私が一生に一度は行きたい絶景スポットと名高い「ウユニ塩湖」に訪れたときの話ですが、現地ボリビアに滞在していた当時の我々(私と同行者、総勢二名)は、人々をウユニ塩湖へ掻き立てるあらゆるPR文を恨み、憎んでいた。

何が「一生に一度は見たい絶景」じゃボケ、こんなところにおちおち来てたら、命が何個あっても足りんわアホ。

 

 


ウユニ塩湖とは

ウユニ塩湖、南米ボリビアの南西部にある、四国ぐらいの広さの塩原です。

ここは高低差がほぼない真っ平なところで、ここから流出する河川とかも無いので、雨季になると、どこにも流れていけない雨水やらが溜まって空を写し、所謂「天空の鏡」が出現します。乾季は乾季でどこまでも塩の大地。乾季の大地もわりと人気らしいです。

現地発のツアー同行してくれた日本人ガイドの方が言うには、ここは十年前ポカリスウェットのCMが撮影されてから観光地化が進んだ場所で、それ以前の旅人が「ボリビアに行く」というと、マジで何しにいくの?という感じだったらしいです。

ウィキペディア日本語版によると、基本産業は塩。ツアーに参加すると、塩工場も見られます。

 


ウユニ塩湖までの行き方

現地ウユニ塩湖への観光は、どこかしらの旅行会社が催行するツアーに参加せざるを得ない(お遍路レベルに広い平原がどこまでも広がっているので多分普通に迷って出てこれなくなる)と思うんですが、ウユニ塩湖に最も近い町・ウユニまでは個人手配でもルートがあります。

個人手配でウユニに至るまでは、主に二つのルートがあります。

 

①に、首都ラパスから飛行機で飛ぶ(一時間ぐらい)

②に、首都ラパスからバスで移動する(十時間ぐらいかかるらしい)

 

②のバス移動がバックパッカーの間ではホットかつお値段もリーズナブルらしいんですが、調べたところによると、バス移動だとウユニ着がもっぱら夜になるらしいので、我々は課金し、①の方法でウユニ入りしました*1

実のところ、飛行機の窓から見えた塩湖が、一番それっぽかった。天気に恵まれれば上空から、どこまでも広がる塩原を垣間見ることが出来ます。

 

我々は、ペルーのリマから南米入りしていましたので、同じようにリマからラパスに飛び、「ラパスで観光をしよう」とかいうヌルイことを言って、己の力量を顧みず、憧れのままラパスで二泊三日の後、ウユニに飛ぶという行程を取ってしまいました。

これが悪かった。

 

ラパスという高難易度クエストの地

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「心臓がポンプすんだ!」(渡辺航弱虫ペダル』(秋田書店)12巻 巻島 東堂)

 

ラパス!! アルファベット表記でLa Paz 平和という名を冠する都市ですがコイツがマジでヤバイ。何がヤバイって、標高がヤバイ。ラパスでの体験は、様々なことを私に教えてくれました。主に標高のヤバさについて、そして人体のもろさについて。

ラパスが教えてくれたことの中でもかなり衝撃が大きかったのは、グーグルマップを過信しないこと。というか、グーグルマップ使うときは、ちゃんと高低差もチェックすることでした。

しっかりなさってる皆さんならきっと、ラパスに行くまでもなくご存知のことと思うんですが、太宰を手に屋上にあがってる私は、まさにグーグル検索で世界を見たつもりになっていた。

例えば東京の路地とかでも、「グーグルマップの示す最短距離はこっちか」なんつって歩いてると、アホみたいな傾斜の坂を上らされたりすること、あると思うんですけど、それが常時起こり続ける。トレッキングに来たのか? 息を切らせながら荒れた舗装みちを昇り続ける様、さながら瀕死の修行僧のようだった。自然と曲がる背中、後方で蹲る同行者。

 

ラパス! アホみたいな坂の街です。山の上のすり鉢に埋もれるようにして出来てる都市。なんでそんなところに住もうと思った? いや、人には人の事情があると思うんですけど、高山病に喘ぎ、立っているのですら息苦しいどころか、寝たって大して解決しない状態異常の只中にいる人間はほんと、人の事情までわざわざ考慮してる程の余裕がない。怒涛の標高3650メートル(空港は4071メートル)、なんでそこに住もうと思った???? 

 

ウユニへの往復により、結局私はこの行程で二度ラパスを訪れているんですが、どうしてもラパスに滞在しなければならない・ラパス観光の際の最適解は、たぶんこれです。

「ソポカチ地区やカラコト地区(新市街)に滞在し、移動にはテレフェリコか、ホテルから呼んだタクシーを利用して、可能な限り立ったり歩いたりせずに旧市街を観光」

これ。

我々というか、主に私が犯した過ちなんですが、ウユニ往路のラパスで、「折角宿泊するんやから観光したろ!サンフランシスコ寺院とかハエン通りとかムリリョ広場近いやん!ここにしたろ!」で選んだセントロのホテルが、ホテルっつーか「ホテル」という名前のホステルで、しかしBooking.comで予約したままロクに確認しなかった我々、完全に「ホテル」だと思い込んでいたがために、あらゆる覚悟と練度が足りない状態で宿泊することになり、結果シンプルな地獄を見る等しました。

 

その一方、復路の、「翌朝の飛行機に乗る為だけの宿」として選んだラパス・ソポカチ地区のゲストハウスはかなりまとも、というか、街並みの雰囲気もよろしく(セントロのホステルは目の前でクラブハウスが重低音を響かせながら夜通し営業していた)、周辺に食事できるような気やすいスポットがいくつかあり(ホステルの周辺はちょっと勇気がいるような飯屋しか無く、ムリリョ広場付近まで歩いて覚悟を決め定食屋の風情がある飯屋に入った)、相対的に気の休まる夜を過ごせた(ディスコの重低音の代わりに、徒党を組んだ野良犬の遠吠えが響いていた)。

 

旅のビギナーが色々あってラパスに宿泊しなければいけないケースが発生した場合は、個人的には、ソポカチ地区がオススメです。

たぶん、金に糸目をつけなければ、セントロでもいい宿があると思います。チェ・ゲバラが宿泊したホテル(多分あれも今はホステル)も、ラパスにあります。多分あれはセントロ。

 

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ラパス市民の足 テレフェリコ



ラパスからの脱出

我々に色々な人間の教えを授けてくれたセントロのホテル(ホステル)から脱出して、一生に一度は見たい絶景の広がるというウユニへ向かう。

この時点で、割とライフが足りていない。我々、旅人を名乗るには魂のステージが低いので、高山病や予期せぬホステルに随分削られ、大分やさぐれていた。

アマゾナス空港チェックインカウンター(標高4071メートル)にて、「オメーちゃんと予約した?」「は?どこに目つけてんだテメー」等と荒い応酬をしつつ何とかチェックイン達成。

そういえば結局私、南米では一度もリコンファームせず二時間前に空港チェックイン、全行程で飛行機に無事搭乗成功したんですが、これはたぶん、ただひたすらに運が良かったんだと思います。

 

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写真で見ても「空が近いな?」って未だに思う

 

ここからようやくウユニ塩湖、南米ボリビアの南西部にある、四国ぐらいの広さの塩原です。

ウユニ塩湖の玄関口となるウユニは、ラパスと比較すると全然標高が低い(約3700メートル)ので、ここの空港に降りると、やっと浅いながらも深呼吸が出来るような気持ちになる。それでもまだ酸素は薄め、一生息を深く吸い込めずここで死ぬのではないかという、うっすらとした死の恐怖が脳裏に浮かんだ。

 

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まだ空が近い


 通常個人手配でウユニまで至るルートを選んだ場合、ウユニ空港からタクシーで数分かそこらの市街地にある宿に泊り、同時にそこから出る現地旅行者催行のツアーに参加するのが王道らしいんですが、塩のホテルに宿泊する目的もあった我々は、ウユニ発のホテル宿泊プラン、およびホテル発着ツアーをネット予約していました。これが良かった。バックパックコースよりは間違いなく値が張っていると思いますが、タクシーと戦ったりする必要もなくかなり楽だった。

なんてったって観光地、インスタ映えが地球を席巻する時代ですので、世界中から人間が集まって来ている。

中でも多分アジア系が多いんだと思います。食事が本当に美味しかった。まっとうな味がするだけでなく、なんか、食べ慣れた「食事」の感じがした。味をアジア人に合わせてるんだろうか。真相は不明ですが、我々は数あるらしい塩のホテルの中でも、「ルナサラダ」というところに宿泊しました。

天国。

ほんと リゾートだった。

ここが果たしてラパスと同じ時空に存在しているのが、およそ信じられないぐらいのリゾート。

なんてったって息吸えるし、お湯が出る。部屋がちゃんと施錠される。最高!! ウユニに来て良かった!!

 

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ホテル ルナ・サラダロビー 白い所は全部塩

 
現地発着ウユニ塩湖一日ツアーに参加した

日本からネットで予約した、ルナサラダ発着のウユニ塩湖一日ツアーに参加した。

我々は出発前にネット予約をしたが、現地のフロントデスクに参加希望を伝えれば、現地で上手い具合調整をしてくれるようだ。

朝からホテルを出発するツアーでは、(天候に恵まれれば)所謂「天空の鏡」とサンセットを見られる。一方夜から出るツアーでは、(天候に恵まれれば)「天空の鏡」に映る、満点の星空が見られる感じだ。我々は昼のプランを予約していた。星にあんまり関心がなかったからだ。

 

同じツアーに参加していた面子には、新婚旅行と思わしき男女、友人同士らしい女性二人連れ、そして現地フロントの口利きで一行に加わった、中国人のカップルがいた。

この中国人のカップルというのが曲者というか何というか、所謂典型的なリゾートに存在する人種、ゾンビ映画とかパニック映画だと、真っ先に食われるようなタイプであるように見えた。

いくらリゾートと言ったところで、ウユニ塩湖の周囲に広がるのは驚異の南米大陸、概ね地球の裏側である。そこからわざわざ塩湖に赴いている我々含む、ほぼ日本人から成る日本語ツアーの面々は、予約サイトに表示されていた事前の持ち物を常備し、満を持して挑んでいた。動きやすい服装、歩きやすい靴、上着(温度差があるので)、帽子、サングラス(日差し対策)。

一方、集合場所で合流したフロントの彼等の服装はこう、南国リゾートに来ていらっしゃるの? という風情であった。

男はまぁいい、なんであれある程度動きやすい服装になるだろう。問題は女だった。

彼女は真っ赤なマーメードドレスを纏い、ヒール高めな白いサンダルを履いていた。ノースリーブのドレスからは惜しげも無く白い肌を晒し、アジエンスな長い黒髪を風になびかせていた。

我々はルナ・サラダには一泊しかしなかったので、彼女の他の衣装を存じ上げないんですけど、お前、本当にその格好でラパス通過したの? と、あまりに巨大な疑問に首を捻る余りフクロウを思わせる角度を付けながらも、しかし言葉の壁があるので「今からでも羽織るもの持ってきた方がええと思うぞ」とババアな忠告をする訳でもなく、全員スキーヤージャングルクルーズに参加するような格好で白バンに乗り込む中、中国人カップルは二人だけのリゾートな世界と共に、貸出ゴム長靴を手に乗り込んだのだった。

 

行程は以下の通りである。

ウユニ塩原側の村で塩工場見学(工場といってもほぼ農具小屋のような規模だ)→ウユニ塩湖→ウユニ塩湖内の廃ホテルでトイレ休憩→ウユニ塩湖でサンセット→ホテル

ウユニ塩湖内の廃ホテル(潰れてからはモニュメントと化しているようで、各旅行者が持ち寄った国旗がいたるところに括りつけられ、写真撮影時に使ったものと思われるゴジラのプラ玩具が、いたるところに打ち捨てられていた)に到着した頃には、日もだいぶ傾き、気温はやや肌寒い程になっていた。ノースリーブの中国人彼女も案の定寒そうに我が身を抱きながら、彼氏と寄り添っていた。

彼女らの動向を見るにつけ、心が荒んだ。いや荒む程ではないが、同じ番でも、いかにも旅慣れた雰囲気で、ツアーにおける模範的な、動きやすいスキーヤーのような格好をして居る新婚夫婦と比較し、どう見ても浜辺のリゾートにいるような彼女の格好を見るにつけ、なんだあのカップルという形の荒みというか、ちゃんと準備しとけよなぁというような、呆れに近い感慨を覚えていたのは、確かな事実だった。

やがて行程は終盤、ウユニ塩湖のサンセットに至ると、風が幾分強く吹いて来たこともあり、気温は鳥肌が立つ程に下がっていた。ノースリーブドレスの彼女はさぞ寒かろう。しかしこれこそ自業自得というものだ。だって気温差あるから上着持ってこいって、どのサイトにも書いてあるもん。

どう考えたって我々が正しく、判断ミスを犯したのは彼女だ。だから寒いのも仕方がない。それが報いというものだ。

 

しかし、違ったのだ。私は己の認識の間違いを、ここで深く思い知ることになった。

 

行程も終わりに近づき、流石にウユニ塩湖の塩を舐めるのにも、塩の結晶を拾い集めるにも、自分の写真を撮るにも飽きが出てくる。

小休憩と言って配られたホットコカ茶を嗜みつつ、周囲を見渡す余裕が出来た頃になって、新海誠が作画したような、鮮やかかつ幻想的な光景の中に佇むどうみてもリゾートな格好であった彼女は、いかにも現実離れして美しいことに、私はようやく思い至ったのだ。

 

むしろウユニ塩湖って、そういう写真を撮って、一生に一度の絶景で、一生に一度の記憶を刻み付けるために、はるばるここまで来るのでは? 

その一生に一度の光景で、何が悲しくてスキーヤーのような格好で、ゴジラに踏みつぶされなければいけないのか。正しい選択をして居るのは彼女だ。

いくら天空の鏡が美しいからといって、雪山でもないのにスキーヤーのコスプレをしていては、ウユニ塩湖の美のポテンシャル、肝であるフォトジェニックさを殺してしまう*2

 

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(参考)ウユニ塩湖でもっぱら観光客を踏みつぶすゴジラの図


 

例えばラパスとかで、ああいういかにもリゾートな格好してると、こう、危機管理とかリスクヘッジ的にどうなのかそれはという問題はあるが、しかしそれだって、私が口を出すことではない。

彼女らの安全管理に問題があると責めるようなことを許されるのは、強いて言えば、彼女らに加わる危害がそのまま自分のダメージにもつながりかねないような家族や、或いは彼女らの身を案じるような友人ぐらいのものだろう。

たまたま彼女らを旅行先で見かけたような、縁遠いことこの上ない人間の口出しをする領分ではないのだ。

自分のこともいっぱいいっぱいなのに、何故他人のことを品定めしようとする? 

一緒に旅行しているような、道中運命を共にする同行者でもなく、人口密度という観点から言えば概ね無人の塩湖を走るだけの連れ合いに、何故、本人たちの快適さと企業の免責の為に設けられている規範に従うことを、義務として強いようとしたのだろう。そしてそれに従わないことによって彼女が被る不利益を、罰として理解していたのだろうか。

 

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作画が新海誠のソレ

 

程なくしてウユニ塩湖観光はつつがなく終わり、急ごしらえのグループは解散した。これから先、再び同じ面子が、一同に会するような確立は、それこそ天文学的な数字だろう。

我々は適当な挨拶を交わし、Air DropなりLineなりで写真を共有して、散り散りに各部屋に戻った。

新婚夫婦だけは部屋には戻らず、そのまま夜のウユニ塩湖ツアーに参加していた。お盛んなことである。

 


旅程を終えて――海外で過ごした経験がどのように自分に影響したか

日頃の行動範囲から大きく離れた場所に滞在すると、自覚の薄いままに自分を構成している様々な「常識」や「固定観念」から解放される。

様々な形で様々な人間に邂逅し、自分から遠く離れたところに行く程に、自分を無意識のうちに縛っている様々な事柄から、解放されるような気がするのだ。

人間、なんでも自由に考えているようで、案外自分で自分を縛っていることは多い。

なので、もしも気持ちがあるのなら、自分なんかがと尻込みすることなく、一生に一度は見ておきたい絶景だの何だの、各々興味関心を見つけ、留学でも旅行でもなんでも、足を伸ばしてほしいと思う。

 

www.efjapan.co.jp

 

まぁ、実際旅行してる最中は、今にこの飛行機が落ちるんじゃないかとか、何かがあるんじゃないかと様々に考え、トラブルの渦中では全力で後悔したり、重めの懺悔をしたりするんですが、まぁそれはそれとして。

 

 

告白録 (キリスト教古典叢書)

告白録 (キリスト教古典叢書)

 

 

*1:我々は検討しなかったルートなのでここでは割愛しますが、調べてみた所この他に、マチュピチュからのバスルートやアカタマ砂漠から入るツアールートもあるらしいです。

*2:あくまで個人の意見です 実際ウユニ塩湖で薄着をすると、寒いと思います。薄着が馬鹿だと唾棄するのは愚かだと思いますが、推奨はしません。ドレスみたいな薄着で行かれる方は自己責任でお願いします。

タンペレの夕日に同志様!!同志様はいらっしゃいませんか!?

 

11月24日の某イベントにて個人的な解釈基準で最高の同人誌を発行および頒布したんですが同カプ界隈、音沙汰なし。蛙が飛び込む音もしねぇ。池、枯れてんじゃね? 斜陽~~~~!!!!

あれから半年が経ちまして五月、弊同人誌読了の上でのこれといった反響は無。あんまりにも無なのでSNSで「無~~~~~」などと荒れてたら、「読んだよ」というご報告を、有難いことに頂いたんですけど、それに対して弊同人誌どこがどんな感じで良かったですが(強欲)って追撃かましたら、報告の霊圧が消える等、人様の慈悲にずけずけと土足で付け入るような罪深い行為を重ねている。

その一方で、弊ブログの今月のPVは、二週目にして100を超えていた。有難い話です。当ブログ、弊同人誌と違って、自解釈の布教とか洗脳を目的にしている訳でもなし、衆目を集めることを一義としている訳ではありませんが、一人殺せば殺人者だが百万殺せば英雄となるように、なんだか、数によって正当化して頂いているような気がした*1が、普通に考えてページビューによる正当化は無いですね。単純に令和に入ってから早速百回以上、他人に恥部を晒しているということでしかない。重ね塗りしたところで恥は恥じゃん。笑ってもらえるだけだいぶマシなんですが。

 

特に今月に入ってから多めに晒している恥は、エゴサして把握している限りでは以下の二記事です。

 

ra927rita1.hatenablog.jp

この記事、ツイッターで北欧志向の活動家とお見受けされる界隈にシェア頂いた他、Facebookでもシェア頂いているようでなんだか本当に恐縮なんですが、この記事、内容としてはコペンハーゲン着初日、駅裏の部屋がやたらと縦長、廊下細めのホステルで、怯えるように息をひそめているフジョシの生態といったところです。

ひとえにブログタイトルが紛らわしいことに端を発する、メーデー違いでシェアされてしまっている気がしてならない。しかしこちらとしても攪乱目的でブログタイトルにした訳でもないので、ひたすらに不幸なマッチングとしか言えず、いや、ほんと、恐縮しかできない。

 

ra927rita1.hatenablog.jp

この広大なインターネットで人類、どうやってこの記事に辿り着いているんでしょうか。

確認できている限り、ツイッター上ではこの記事について、なんだか趣味の近そうな方々がシェアして下さった上で、「わかる」から「ヤバい」「怖い」まで様々な感想を述べて下さっている。すっごく嬉しい!!!!!!!いやほんと、そういうのが欲しい!!!!!!!!!!有難う御座います!!!!!!!有難う御座います!!!!!!!!!!

ほんと小説同人誌、読んで頂いただけで御の字というのも一理あるんですけど、私が最後、頒布した自作最高同人誌の読者として想定され得る、同好の他人に向けている希望らしいもの、このしょうもない人間パンドラボックスの底にあるものといえば、弊同人誌を認識した他人は、どのような感情を抱くのかというところなので、それが賛辞であれ恐怖であれ好意であれ憎悪であれ、嬉しいのだ。なんてもんを読ませてくれたんだという苦情でいいから、欲しい。むしろ、苦情が欲しい。だって内容に言及してくれるんでしょ!?!?!?!?????

読んだよという報告を、わざわざお手数かけて頂き御寄せ頂いたところから、何らかの好意的な感情ないし慈悲溢れるこころを汲むべきと言われればそれはそうですし、そもそも読まれたという報告だけでもほんと、御の字なんですけど、ゴールデンウィーク中にまたありましたいくつかの同人イベントで発行された〇〇さんの同人誌が最高!すごい!ここがいい!わたしこういった世界観が好きで!この二人の関係性が!!っていう諸々の応酬の中で、わたし、読んだよの四文字ばかりを握りしめている。読んであなた、何を思ったんですか、有り得ないと思いましたかどこが有り得ないと思いましたか、是非それを話してくれませんか、私に、ねぇ、どんな感情を持ったの、お話しして!!

しかしまぁ人間、お話しする相手は選びますよね。

ここで限界サークルムラハチフジョシのライフハックをひとつお伝えします。現代には質問箱なりマシュマロなり匿名質問サービスが大量にありますので、それをオープンにしている界隈者に向かって、「(カップリング名)でおすすめの小説本はありますか?」と聞いてみましょう!(カップリング名)でおすすめの本はありますか?という聞き方だと、十中八九漫画本かイラスト本が出てくるので、自作が他人のオススメに入るかどうかチェックしたいという邪な下心を抱いている零細小説マンは、「小説」限定で狙い撃ちをしろ。そうやってなけなしの匿名の皮を被れば、ややもすればムラハチを越えていける、だって自作のアレどう考えても最高傑作だし! 恋! とか思ったんですけど、実践してみたところ普通に弊最高同人誌についてはノーコメントでした。戦線に異状なし!

 

上述の通り、もしかするとこう、活動方面の方からもビューを頂いているかもしれませんし、折角なので、赤いタンペレの話をします。

 

 

www.booky.fi


フィンランド第二の都市タンペレ、雰囲気としてはイギリスで言うマンチェスターという感じの所です。タンペレは紡績、マンチェスターは織布なんですけど、まぁだいたいそんな感じ。雰囲気もわりと似てるような気がします。煉瓦だし。

フィンランドの首都ヘルシンキからの移動方法等は以前の記事で触れているので、そちらを参照頂ければと思います。

 

過去にはフィンランドにおける労働者運動の牙城となったタンペレには、ムーミン博物館の他にレーニン博物館があります。

かつてムーミン博物館があった推定タンペレ市美術館からタンペレ駅方面まで引き返し、教会の手前、道路沿いに延々と続いている公園のところまで戻ってきたら、公園の道沿いに右折、いくつかブロックを歩いていくと見える建物の、二と二分の一階にあります。当時それを目の当たりにしてオッ!ハリーポッターじゃん!九と四分の三番線!などと思いながら撮影した写真がデータに残っているのですが、最新のトリップアドバイザーを観たところ、どうやら古い建物を改装した結果の表示バグらしいです。何故三階が二と二分の一階になるか、バグの生じた理由まではよくわかりません。

レーニン博物館、規模としてはそれほど大きく無く、館内は全て撮影可能。学生料金もあります。ヨーロッパさん、本当に学生という無産市民階級に理解がある。いや、子供も持たないので、古代ギリシア的には、最早プロレタリーですらないんですが。え、何者?

 

正直、レーニン博物館、印象としては割と薄め。

ミーハーなので、喜び勇んでウラー!と入ったはいいものの、展示の威圧感といった点では、タリンの占領博物館地下階の方が強い。

タリン占領博物館はタリン旧市街の城壁を潜り抜け、坂道を恐らく新市街に向かって暫く降りたところにある、バウハウスみたいな(どんなだ?)全面ガラス張りの現代建築なんですけど、地下階に向かう階段の上には赤と黒のカラーリングで「こよりは地獄」と言わんばかりの表示がされている。希望を捨てきれずワクワクで階下に降りますと、ソ連時代に行方不明になった政治的な活動家についてとか弾圧とか拷問具といったラインナップに加え、何故かスナッフ感あるゲイセクシュアルモノクロムービーが延々と流れている空間があった。

あの展示、ソ連時代の人権弾圧についてフォーカスした感じの展示だろうな~みたいな、何らかの推測をすることはできるんですけど、マジでなんだったんでしょうか。稚拙な英語力と基本エストニア語表記のダブルパンチにより、私の記憶の中の占領博物館はわりと謎に包まれている。

それは兎も角、タンペレレーニン博物館は、やはり結構小ぢんまりとしている。いやタンペレレーニンスターリンと出会った場所という流石の貫禄と、これがかの有名なレーニンさんの咥えたパイプですね!!といった、一種の聖遺物的なテンションの上がり方はあったんですけど、特にこれといって、強く印象に残っているようなところは正直少ない。展示物というか、館内全体に立ち込める、出張モスクワな雰囲気の方が、何だかよほど覚えがある。

私のロシアに対する原初の記憶は、2005年愛知万博ロシアパビリオンの出口近く、シベリアの凍てつく森林と、その上にかかるオーロラという、幻想的な空間を再現した建物の壁に示された、「次はモスクワで会いましょう」という謳い文句なんですけど、実際にフィンランドに行く際経由し出会ったモスクワは、パビリオンで見たような、色の組み合わせで例えると紺と青緑の光~といった雰囲気ではなく、結構キツめに赤い(個人の主観)。赤いタンペレも、割とそんな感じだった。

そうして思い返してみれば、タンペレレーニン博物館の展示の中で記憶に引っかかっているのも、展示順路の最後、出口近くの一文だ。「フィンランドはロシアの隣国であり重要な友好国の一つである、友好の歴史を学ぶことでこれからも良い関係を持ち続けよう(うろ覚えの意訳)」といった内容のそれを受けて、タンペレレーニン博物館に至るまでの間にタリン占領博物館*2や、スオメンリンナ軍事博物館を経ている私としてはこう、様々な人間、様々な視点といった感じがして、重なり合う記憶!と最高にゾクゾクした瞬間だった。

これもやはり個人の趣味の話なんですが、特に未だ傷が浅い近現代の歴史をどのように後世に「紹介」するかを使命として帯びている性質の博物館は、最高に興味深いんですよね。そこの博物館の展示を通して歴史的事実を学ぶというのもまぁあるんですけど、「歴史的事実」と言われるものをどのように見せ、鑑賞者に対してどのように印象付けようとしているのか、という視点、オススメです。だからどうという訳でもないし、これが何か役立つかと言われれば、まぁ随所でニヤニヤできるぐらいしかないんですけど、楽しい。

しかしそういえば当時の同行者にも私、こういうようなことを語った記憶があるんですが、割と相手にされず、「ここで待ってるから好きに見てこい」と言われてしまったことを思い出しました。


レーニン博物館を後にして、駅に戻りがてら、道中にあった店にいくつか入った。タンペレマーケットホール(Tampere Market Hall)にも入った。ガイドブックに掲載されているようなところで、1901年に創業した北欧最大の屋内市場なんですけど*3、訪れた時間が土曜の16時だったので、インターネット上の口コミにみられる活気あふれる雰囲気は流石に鳴りを潜め、どこか閑散としていた覚えがある。

次々に店じまいをしていく店の間を縫って、まだディスプレイしていたいくつかの店舗をひやかし、ジャムオンザクリームといった方向性の重そうなケーキを見てから、マーケットホールに隣接する、デパートに入った。

そこではムーミン博物館で値段を吟味し選んだお土産と全く同じムーミングッズとかが平然と安値で販売していて、なんだかショックを受けたりもしたんですが、このデパートで私は、フィンレイソンに出会った。いや、フィンレイソンというか、フィンレイソンとコラボした、トムオブフィンランド

前述の通りタンペレは紡績業等で栄えた時期があったこともあり(Wikipediaによると今は情報技術産業や電気通信産業に取って代わられ、Hervantaに多くの本社があるらしい。オンニバスで通路を挟んで隣り合ったアベックの教えが今更身に染みて来た)、テキスタイルブランドであるフィンレイソン発祥の地でもある。

このフィンレイソンが、フィンランド屈指のゲイエロティックアーティスト・トムオブフィンランドとコラボしたテキスタイルや、それを使用したグッズというかアイテムが、デパートに売られていた。

当時の私はトムオブフィンランドについて、「ツイッターで見たことあるあのすっごい奴」という印象しかなかったので、その他無難に素敵な柄のトートバックと一緒に籠に入れられ売られているトムオブフィンランドコラボのやわらかいトートバックを一目見るなり、エッこれフィンランドにあったっていうかマジでこれエッすごいなと思うがままに薄い語彙力で衝動買いした。私が所持するにはちょっと引け目を感じる程おしゃれである。日頃のワードローブでは全然使いこなせない。それ以前に、どうしても普段使いで擦り切れることを考えてしまい、未だに使ったことがない。今は、すっかり展示物となっているトムオブフィンランドのトートバックを眺めながら、どうせだったらあそこで五枚ぐらい衝動買いしておけば良かったと思っている。

 

genxy-net.com

 

それにしても、数年前タンペレに訪れたときは私、完全ムーミンレーニンの二大巨頭目当てだったので、タンペレという都市自体には大した関心がなかったんですが、今回顧するにあたって、改めてタンペレについて調べていると、フィンレイソン旧工場見学(湖沿いにあるあの赤レンガの見るからに工場な建物がソレだった)とか、フィンレイソンアウトレットとか、世界各地のスパイ職にまつわる展示や解説が集められた「スパイ博物館」とかあったらしくて、えっ何それ 俄然行きたくなってきました。

 

kiitos.shop

 

www.anniversary-t.com

 

ところでトムオブフィンランドフィンランドでは切手に採用される等メジャーなアーティストでいらっしゃって、ヘルシンキ・ヴァンター空港免税ショップに売られているフィンランド土産の中にも、トムオブフィンランドとパッケージがコラボしたコーヒー豆とかいうゴツめの商品がありました。

当時の私はそれを購入し、旅行中に開催される同人イベントで買い物を肩代わりしてくれると声を掛けて下さったフジョシに、御礼と称して送った。

フィンランド旅行当時の私は、駆け出しのフジョシロールプレイをしている最中で、交流することによって自解釈が広まるなら交流俄然しましょうといった心構えがあったし、そうやってアカウントの鍵を開け活動していると、運もあってか、或いはジャンル全体の斜陽の始まりというか、声の大きい佛や、コミュ大手の文字書きが、やたらにリプライをしてくれるようになった。といっても、「この間の飲み会で(わたし)さんのこういうところが好きっていう話をして~~~キャッ恥ずかしい!」みたいな、謎リプを飛ばされる立ち位置だったんですが。直接言ってくれ。

こういった謎リプを飛ばされる立場にいて、実際何か良かったことがあるかと言われるとほんと、買い物代行を申し出てくれる他人が居たことぐらいで、他はだいたいロクなことがなかった。フジョシロールプレイの一環としてスカイプ通話に誘われるがままに参加し、事前に通知されていない謎の逆カプ大手が面子として乱入、地雷設定の布教をされる等、トンデモ案件流れ弾ばかりを喰らいながら、しかしどっこい希望を抱いて生きていたTシャツの中。

兎に角、旅行中の私の為に買い物代理をして下さったコミュ強フジョシは、私からの見当違いな返礼・トムオブフィンランドパッケージコーヒー豆(トムオブフィンランドは何も悪くない。悪いのはフジョシロールプレイに勤しみ、界隈を自解釈で洗脳するという見果てぬ夢を抱く側から早速溺死をしている私だ)について、コーヒーは飲めないので同居人に上げるけど、素敵なパッケージ有難う御座います!みたいな、当たり障りのない返答をして下さった。

後に、どうやら本を出しただけでは界隈とコミュニケーションが出来ないらしい、っていうか、同好の士とか〇〇クラスタさんとか頻繁に言葉に出ますけどああいう慣れ合いっていうか繋がりっていうか、〇〇さんのツイートを絵にしてみました☆とかいう関係性ってどこの棚から落ちてくるのかさっぱりわからないということに気が付き始めた私が、SAN値チェックおよびフジョシロールプレイに立て続けに失敗し、面の皮がはがれ始めた辺りに、抜け目ないコミュ強フジョシからは、しっかりブロックして頂いていた。

しかし最近、エゴサしている最中に、長らく見なかったコミュ強フジョシのアカウントが見られるようになっていて、オヤどうしたんだろうとホーム画面を見てみたところ、どうやらブロックが外れているようだった。

一体どういう心境の変化があったのだろうか。時は人間の心を変えるものなので、荒れるムラハチに対する恐怖が消えたというか、そもそも現在は界隈ではないというか、まぁ色々とあったんでしょう。

相変わらずのコミュ強ぶりを一通り拝見した後、己が快適インターネットの為にブロックをしてから思ったことは、わたし、コミュ強字書きフジョシになりたかった!

pixivに投稿すればめちゃめちゃにブクマされ、一般参加時代からサークル参加の人に挨拶に行ってはもっぱらの話題となり、絵を貢がれ、周囲に背中を押されるようにしてサークル参加をする者になりたかった!!本を出す以前からツイッターの取り巻きなんかに「〇〇さんの(カップリング名)のこういうところが最高」とか、言われたかった!飲み会とかしたかった!(カップリング名)会とかいうふざけた名前で居酒屋の予約を取って、バカみたいに騒ぎたかった!いい年した人間が大学のサークルみたいにはしゃぎまわっている様、冷静になって見れば確かにドン引きするとは思うんですけど、冷静にならずに原稿合宿とかして、(カップリング名)の部屋とか、作って見たかった!いや、原稿合宿とか飲み会とかはぶっちゃけそんなにしなくていい。一番したかったのは、他人に創作をさせることだった。何気なく書いた小説を、ワンシーンを逐語訳的に漫画とかにしてほしかったし、ウェブ再録と共に「実はこれ読んでました!!」とか言われたかったし、イベント後に〇〇さんの小説最高だった!!みたいなムーヴと共に絵描きからイメージイラストをアップされたかった!!

何よりもわたし、何気ないことで、箸が転がるようなことで、これって(カップリング名)だよねとか言って、馬鹿みたいに笑い合いたかったのだ、同病の誰かと!!

 

しかしまぁ、見果てぬ夢である。

しかもこのどうしようもない感情、今では時間によって粗方解決された。

蒙昧な界隈を恨み大手解釈の流布を恨み大手解釈に毛が生えたようなものを二次創作と〇〇さんの(カップリング名)最高と言って憚らないタイムラインを唾棄しながら自解釈を一つ成仏させて半年、投げ込んだ池に蛙が飛び込みすらしないことを確認している今となっては、何かしらを他者に期待するよりなによりも、自分で最高の自解釈を生み出しては見ては読んで最高と打ち震えるのが、おそらく最善の道であろうことを知った。

というか、大抵のフジョシが通るらしい「自分が解釈違い」というフェーズが存在しない時点で、多分私は、かなり恵まれているのだ。

恵まれたリソースを人間関係の解釈にふんだんに費やし、同病ではないものの何かしらを患っているフォロワーと共に、一年先も見通せない不透明な身分を、楽しく過ごしている(楽しく過ごしていいのか?という疑問はある)。

最高の自作を読み返し、最高と唸る日々である。

しかしそれにしても自作があまりに最高過ぎて、これに対する反響が同病の界隈に全く見られないという点に首を捻り、ムラハチである自覚を持ったうえでハンドルネームを変えた擬態アカウントを生み出し、ムラハチ身分を隠せば読まれるのでは?とSS名刺を量産しては、特に反応がないことに首を捻り、さらに擬態アカウントも速攻ムラハチの者であると肉バレしてブロック頂き、小説の書きグセは兎も角、果たして文体で中身の肉がわかるものだろうか人間って怖いなぁと首を捻り、そうやって幾度となくシャドーボクシングをしがてら、ムラハチながら面会頂いた今は別ジャンルにいらっしゃる方には「孤高」、界隈とは関係の無いフォロワーの友人から繋がりを得たフォロワーには「心に荒野がある」等と表現されてしまったりしているんですが、ほんとうに、この、界隈という群体のような幻想、非人称に向かって承認を欲求する余り超速で量産されゆく生き恥。自作が自己解釈にとってあまりに完全と理解しているばっかりに、他者という鏡に映し自作がどのように見えるか知りたいと願うあくなき好奇心。ほんと、どうすればいいんでしょうかね、時よ!(二回目)

 


星野源 - 時よ【MV & Album Trailer】/ Gen Hoshino - Tokiyo

*1:チャールズ・チャップリン『殺人狂時代(Monsieur Verdoux)』(1947年)"One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify"(「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が(殺人を)神聖化する」引用部分と和訳はWikipedia(日本語版)を参照した。最終確認日2019年5月9日)

*2:エストニアにおけるソビエト連邦期やナチス・ドイツ占領に関する歴史を紹介している

*3:"Opened in 1901 and located in a gorgeous art nouveau building, Tampere Market Hall has grown to be the biggest indoor market in the Nordic countries."(Tampere Market Hall公式サイト英語版トップページより、最終確認日2019年5月11日)

メーデー! とも令和とも特に関わりがない映画『テルマ』について

 

別に節目でも何でもないが、タイトル回収回である。

しかしアレですね、三月四月のブログ更新率を見るにつけ、お前!ブログしてねぇで自己PR文書けよ!!書けよ!!!何してるんだよ!!!!!アッハッハッハッハッ!!!!!!!(履歴書の最後の一字でミスをした私feat.おひさまの国のお城で孤独に佇む黒化ブライト様)

 

このブログのタイトルは、五月一日に世界各地で行われる祭典に因んだものではない*1

メーデーさんに因んだものである。

本名はスキャグデッド。『バイオハザード リベレーションズ』に登場するクリーチャーだ。

メーデーさんというこの呼称は、作中初出のスキャグデッドの台詞(台詞?)メーデーメーデー…こちらクイーン・ゼノビア、救難信号…メエェェェデエェェェ」から来てるので、正確に言うとメーデー(遭難信号)から派生したメーデーさんに由来する、つまるところ孫引きのようなものなんですけど、ええんかそれは。

なので、五月一日はわりとただの日付である。なお今年は改元イベントのあった日付でもあり、寝て起きたら平成が令和になっていたが、日常で和暦に余り接さないので、大した感慨もない。

というか、新年カウントダウンの如く盛り上がっている人間を見て、逆に冷めたクチだった。お前、ほんと、そういうところだと思うぞ。踊るアホを見るアホがどうのこうのって、言うじゃん。節目を意識することで、日常の生活にメリハリが生まれるんじゃん。

しかしなんか、回顧をすることによって「平成は良い時代だった」「ありがとう平成」「次来る時代も穏やかな良い時代でありますように」「ようこそ令和」というテンションに引っかかりがあるというか、良い時代でしたか、平成。総括の場で「何ら良いこともない、悪くなるばっかりのクソみたいな時代だった」と言ってもしょうもないので、何かいい感じに締めとこうという所は、わかる。「悲観的」に見ても仕方がないというのも、わかる。しかし、兎に角終わり!閉店セールだ!と言わんばかりのお祭り騒ぎを見るにつけ、パンとサーカスジョージ・オーウェル!と、つまるところ、勝手に興奮する性癖なんですね、善悪の判断は置くとして、現象として面白いですよね。

 

メーデーであり、令和の初日であり、しかし労働してないし、和暦にそんなに関わってないので、どちらとも大して関係なし、それどころか、どっちかというと、そんなことしてる場合じゃない身分なんですけど、折角なので、末期の平成において何をしていたか、ここに書き残しておきたいと思います。

 

といっても、特に何もしていなかった。平成最後の昭和の日に大正駅で云々とかいうのが夕方のニュースで流れたりもしましたが、あんな感じで、最後の日に何して過ごす? みたいな発想が、まるでなかった。

履歴書を書き、誤字をし、ゴミと化した履歴書を丸め、捨てる。やる気を失い、漠然とネットサーフィンに繰り出す。ふと思い出してダウンロードしていた論文に目を通す。語句を調べようとしてタイムライン警備を始める。きっとこんな風に、最期の日を迎えるんだと思う。予定の無い日を緩慢に過ごしてしまいがち、流しそうめんみたいに若き日の人生を流している訳ですが、平成最後の日には運よく、見たかった映画のタイトルを思い出していたので、映画を見た。

 


映画『テルマ』予告編

 

テルマ』である。

2018年の末頃、ツイッターで繰り返し複数のアカウントからリコメンドされているのを見たのだ。年末に見ようと思って結局見なかった映画なので、じゃあこの末に見るかなと思い立ちました。前情報としてはホラーサスペンス百合超能力ぐらいだったんですけど、実際見た感想としては陰鬱陰鬱百合超能力(?)といったところでした。

舞台はノルウェー、寒村にて厳格なキリスト教徒の両親に育てられた少女・テルマは、大学進学を機に都会・オスロで一人暮らしを始める。そこで出会った少女との「禁じられた」初恋を契機に、彼女の内なる力が目覚めてしまい……といった感じのあらすじなんですが、一通り見てからあらすじを見ると、何となくミスリードを感じるので、陰鬱な北欧が好きな人は、以下の文章を見る前にご自分でご視聴された方が、多分楽しいです。

 

doga.hikakujoho.com

 

UNEXTでは見放題の範疇に入っていなかった(580円でレンタル可能)んですが、一ヵ月無料体験時に付与される1000ポイントで無料レンタル出来ました。

 

 

で、私の感想なんですが、はっきり言ってよくわかってないです。

「いるのですよ、この世には。本物の力を持った霊能力者がね……」*2といった、幕引きを感じた。

陰鬱な画面とか色々あったんですけど、中でも特に観客に情報が開示されていくにつれ、登場人物への見方が結構大きく変わったのは、凄い面白いところだなと思いました。他人の感想を見てる時に蛇蝎の如く悪し様に言われがちだった父、私も冒頭何だこのハゲぐらいのお気持ちあったんですけど、父、父……私の中で最も大きな印象変化があったのは父でした。作中においても旧弊な価値観の権化として描かれているのは間違いないと思うんですけど、「あなたは本当に優しい人よ」という夫婦のシーンに象徴されるように、どうしようもなく一市民でしかない彼は、娘の力を前にして圧倒的に無力だった。

恐らく彼の父(祖父)も同じことを彼の母(祖母)にしており、抑圧の末に自分の身に危険が迫ることを分かっていたと思います。自分の父の末路を知りながら、(そのように育てたのだから当然なんですが)自分たちに救いを求めてきた娘テルマに対し「必ず助ける」と言う、その横顔の影に見える悲壮。父~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!

昨今の流行と倫理の更新、そして祖父というフラグの通りほんと、従来の家父長制や権威主義による秩序の行く先は悲惨しかない!といった感じの末期を辿る訳ですが。

 

それにしても、この映画でひとつの価値観が提示されていることはわかるんですが、その内容が一晩寝て考えてみても掴めない。霧島澄子が頭の中で歩き回っている。「流しましょう。私たちの全て……」*3

テルマ』が例えば2000年代初期に制作された映画であったとしたら、父を炎上させた後に、湖の底に向かって泳いでいくテルマ/大学のプールで、在りし日のようにアンニャと再会するテルマ このシーンの後にエンドクレジットが来るか(限りなく死に近い生死不明)、湖畔に打ちあがったテルマの溺死体を映しエンディングにしていたと思う。

しかしこれは2010年代の人権先進エリアで育まれた映画なので、矢張り殺しはしなかった。衝撃的な終焉を迎え、マイナスの状況下の中で、「それでも生きていく/生きていかねばならない」というテイストの映画、最近割と多いように思うんですが(割と多いとかいって、私そもそも、そんなに映画を見る習慣がないのでこのパターンに該当する映画として、『シン・ゴジラ』とかしか浮かばない。)、歴史は終焉に向かわず統合の夢は潰えた現代史という話が好きな私はめちゃめちゃに性癖。時代が追い付いて来たなっていう感じがします。(何?)

話をそれでも生きていくテルマに戻します。

湖畔で幸福な夢のまま死ねなかったテルマが吐き出した小鳥の死体。キリスト教的な象徴だと思うんですが、そこは不勉強なので現時点ではスルーします。

その後のテルマの行動と、その状況をどのように解釈するかによって、この映画における主題が、大きく変化するように思う。

 

個人的な見解として、「力」をあってはならないものとして抑圧するのではなく、それも「私」であると受容することによって、テルマは力をコントロールすることが出来るようになった(母の脚の治癒)、というのは、以下に述べる二つの解釈のどちらにも共通するように思う。この映画の中で示される主題の一つは、自らを抑圧するのではなく、受容せよ(さもなくば未来はない)といったものでしょう。

以上のテーマが共通のものであるとしたうえで、以下が問題のラストシーンなんですが、

 

治癒した母親の制止を振り切り、実家を後にするテルマ。場面は切り替わってラストシーン、大学構内に戻ったテルマは、首筋にアンニャの口づけを受けることを夢想する。するとその後に続いて、後ろからやって来たアンニャにより、首筋に口づけを受ける。微笑み合う二人。台詞はうろ覚えなんですけど、「その服似合ってるわ」(アンニャはこれまでパンク系のファッションを着ていることが多かったが、ここでは白いシャツにスカートといった素朴な装い)「あなたも、私の上着がよく似合ってる」(テルマは物語中盤までのアンニャが着ていた確か黒い革ジャンを着ている。パンツスタイルだ) 大学構内を歩く二人。ここで暗転、エンドクレジット。

 

ここで個人的な争点になるのは、アンニャの自由意志である。

物語の中盤、テルマを救おうと彼女の力を抑圧する父との問答の中で「彼女を愛していた」「彼女は愛していなかった」「お前には誰かが必要だったんだ」「お前がそのようにあれと願った、だから彼女には選択肢がなかった」というのがあるんですが、アンニャからテルマへの恋愛的アプロ―チが、テルマの願いによるものであるか。ここが争点。

物語序盤から、割とアンニャは積極的にアプローチしてくる。テルマが願いを自覚する以前からアンニャがアプローチをしていたのならば(またはテルマの力はテレポーテーションやテレキネシスに限り、人間の精神に感応するヒプノシスな力はないとすると)、アンニャのテルマへの恋慕は自由意志ということになり、エンディングにおける去っていく二人は、抑圧を越え自身を許容/受容したことによる、妥当なハッピーエンドとして見ることが出来ると考える。


しかしアンニャの恋慕が、テルマの願いによるものであった場合を考えると、どうなるか。

前述の通り、テルマの超能力はテレポーテーションとか物質の移動とか少なくともそういう物理に働きかけるものがメインであるという描き方をされていると思いますが、ここでは、彼女の能力が人間の精神の操作を可能にするものだった場合、あのエンディングシーンを、どのようなものと解釈できるのか。

父の言う通り、「テルマは孤独で、誰かが欲しかった」というのを前提に、たまたま横に座っていたアンニャに白羽の矢が立った。或いは、アンニャは元々テルマに関心を持っていたが、それを恋慕に変質させたのは「アンニャと親しくなりたい」というテルマの願いであったと考えた場合(テルマのアンニャへの執着は、作中前半において描かれている)、

二人で手に手を取って去っていくあのエンディングはつまるところ、作中マリファナと言われ煙草を吸わされてトリップしたテルマによる自慰行為のシーンがあるんですけど、あれと同様、あのエンディングは、テルマの自慰に過ぎないのではないか。

テルマが首筋への接吻を夢想するイメージが明確に描かれていることから、私は個人的に後者の説を意識してあのエンディングが撮られた可能性が高いんじゃなかろうかと思っている。

「全身全霊を掛けて願えばお前の力が叶えてしまう」と父に言わしめたような超能力を持つテルマは、父殺しにより抑圧を逃れ自由を得ることで、自らの力をコントロールすることが出来るようになった。彼女の力によって崩壊した家庭で「行かないで」と縋る母を背に、彼女は都市へ出ていく。自らの力によってコントロールされているアンニャの手を取り、力を持ったテルマは、しかし、孤独だ。以前の価値観の象徴である家に戻ることも出来ないし、側にいるアンニャは彼女の自由意志ではなく、力により操作されている。

その孤独の中で、それでも生きていかなければいけないというのは、こう、極めて今っぽいテーマだなと思うと共に、ツァラトゥストラはかく語りき!って感じで、私はそういう話好きなので、テンションが上がる。神は死んだ。絶対者のいなくなった世界で、超人にならねばならない!

 

ところで物語中盤、オスロ・オペラハウスが出てくるシーンがあるんですけど、実際行ったことがある/記憶がある場所が映像として出てきて、なんだかよりテンションが上がった。あっ!このオペラハウス行ったことある! 勧められるがまま、ここの屋根に上って、雪で滑って、斜面で尻打って、成人にして、新たに蒙古斑を作りました。2018年ベスト痛い打ち身イヤー。昔取った杵柄! って感じで、ささやかに受け身を取った形跡もあったんですけど、何よりも先に派手に尻もちをついて、暫く起き上がれず雪の上に蹲っていたら、困惑顔の女性数名が手を差し伸べてくれました。優しい世界。

 

www.visitnorway.asia

 

オスロ・オペラハウスは、オスロ中央駅の南側から出ると徒歩五分というか、目と鼻の先に見える。

私は12月オスロで雪を漕ぎながらだったので、五分かそこらぐらいの印象を得ましたが、夏だったらもっとサクっと行ける距離にあると思います。

 

テルマ』の作中では、都会の象徴として描かれるオスロなんですが、私の感覚からいくと、流石に首都という風格はあるんですけど、かなり小規模な都市だった。

どれぐらいかというと、ナットシェルでたまたま一緒になった中国人グループと、そこらの道端で再会するぐらい小規模。駅前から王宮までを繋ぐカールヨハン通り、片側一車線もなさそう。いやそこの道で車移動が想定されていないとか、馬車道とか、色々あるんですけど、印象としては、小規模な街です。

夏に行けばまた、ダイナミックにフェリーに乗って島の方にあるヴァイキング船博物館とか行って、印象変わるんじゃないかと思うんですけど、どうにもこぢんまりとした感じ。

これまで北欧の都市は、片手で数えることが出来る程の回数行きはしたんですけど、その度にこう、オスロに見た印象と類似の、「管理できる小規模」という雰囲気を見ている。

日本語圏のツイッターで、選挙シーズンとかに、選挙カーを否定する文脈で「北欧の都市では演説の為に市民にドーナツとコーヒーを支給して、集まって来た奴に話を聞いてもらうんだぞ」というツイートをどっかで見たんですけど、首都であの小規模なら、そら、北欧では出来るのかもしれないが……といった印象になる。

無論、人権意識とか諸々で北欧は先進地域だろう。しかし北欧で実施できているあらゆる事柄というのは、「先進的な思想の枠組み」は勿論、同時に、「小規模感」によって実施できているという側面も、少なからず大きいのではないかと思う。

文明の発達した今でこそ、おしゃれスタイル北欧とか何とか出てきますけど、元々自然環境が恐ろしく厳しい土地だ。というか、おしゃれとか銀行とか、付加価値を売りにしているところは、基本的に土地が貧しい。すなわち粗方掘り返し尽くした「現代」に利用可能な価値観の先進と言い換えることが出来るので、北欧がフィーチャリングされる流れは全く正鵠を射ているというのもあるし、前提条件が全く異なるところからも、勿論学ぶべきところはあると思うんですけど、ここには無いほっこり幸福なイメージを、北欧に求めるのは、何かズレているんじゃないだろうか。しかし、そもそもイメージビジネスなんだから、実態がどうであれイメージが売れれば、それはそれで正しいんじゃないのか。そもそもほっこりヒュッゲ♥にやたらと引っかかりを覚えるお前が、単に陰鬱な景色が好きなだけじゃない? ハマスホイとか。というか、ノルウェーにおけるヒュッゲ概念が存在するのかどうかはわからないんですけど、そもそもヒュッゲって大切な人と一緒に過ごす時間♥の概念じゃないですか(主観)。後者のアンニャに自由意志は存在しない、テルマの「力」にはヒプノシスマイクが含まれているという解釈で行くと、テルマはそういうの、手にしてないんですよ。

能力を抑圧する鎖/家庭という場を破壊することによって、自由を得たテルマは、自分の願いによって変質したアンニャの手を取ることが最早自慰行為でしかないにせよ、それでも、生きていく。

父と類似の悲壮がここにあり、赤い煉瓦の並ぶ陰鬱寄りの街並みがそれに影をそえるというか、いやしかし、人間は見たいものしか見ないので、私はそういうものを見たいから、そのように見ているんでしょう。ここが主観の限界、おしまいの地です。

 

 

幸せってなんだっけ? 世界一幸福な国での「ヒュッゲ」な1年

幸せってなんだっけ? 世界一幸福な国での「ヒュッゲ」な1年

 

 

*1:出典: 「メーデー」、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』(最終確認日2019年5月1日)

*2:霧島澄子 『TRICK』(2000年) 第三話「母の死」

*3:霧島澄子 『TRICK』(2000年) 第三話「母の死」

マッチング相手と出来なかった台湾高速鉄道で行く台湾南部の話

最恵国待遇、もとい「彼氏」「彼女」といった肩書によって他者を独占する権利を得たい! という一心でマッチングアプリに登録した時期もありましたが、予期せぬスマホの謀反により目論見はデータごと崩れ去りました。残るは荒城の月、兵どもが夢の後。

しかし、謀反起こらずとも目論見を達成する目算は正直、無かった。アプリを起動するのも面倒になっていた。マッチングした相手への関心が、返信への手間を上回っている内は良かったんですけど、次第に「話題を探し続ける」ことが、面倒になってしまった。

この経験を通し私は、日常生活、例えば共通の趣味とか、共通のジムとか、共通の職場とか、学び舎とか、そう言った所で、相手への造詣を深めていきたい方だなという自己分析を深めた。目下、職場未定だし、学び舎には異性がいません。学部一年前期に受講した教養科目で、哲学教授が言い放った言葉が忘れられない。「異性との交歓の喜びを捨て、学び舎としてここを選んだあなた方は、既に熱心な哲学徒である」

 

ところで、かつてのアプリにてマッチングした男たちの中で一人、鉄オタが居た。日々の労働の中もぎ取った休みで中国大陸に乗り込むと、ひたすら鉄道に乗ると言っていた。

ここでマッチングした鉄オタが、話し相手として良かったかと言われると、正直何とも言えない。トークは常に交流というか、質疑応答の感があった。しかし彼については私は、少なからず共感を持っていた。自分も似たようなものだからである。相手に対して関心は無いが、誰か「自分ではない他人」とつながりを持ちたい。気兼ねなく話せる相手が欲しい。相手の相槌を独占しても罪悪感のない関係! 心当たりがあったら、是非メール下さい。ハンドルネームはまだ覚えているので、よかったらまた、文章のやりとりをしましょう。私の手持ちの話題は、もう全部アプリで使い切ってしまったので、敢えてする話も無いかもしれませんが……。

 

この鉄オタと最後にしたのは、台湾高速鉄道の話だった。彼が何故中国大陸の鉄道に強い関心を持っていたのかについては、結局要領を得ないままだった。その理由を聞いたような気もするし、聞かなかったような気もする。答えて貰ったような気もするし、はぐらかされたような気もする。相手を理解する為のトークを幾晩かこなしながら、結局私は何一つ、理解できたものはなかったのかもしれない。なかったのだろう。

その中でも、鉄オタが台湾高速鉄道に乗り、高雄まで行ったことは知った。高雄、駅名としては「左營」で、全然わかんなかったなという話が、我々の最後のトークの切り口となった。

 

私が台湾に行ったのは推定五年前、初めての海外旅行だった。

このブログの最初のエントリーで話題にした場所は京都だが、次なる記事として、私は台湾に関する記事を上げようとしていた。

まっとうな旅行記事を書こうという意気込みがあった当時、意気込みに潰され、結局記事としてはお釈迦になった。

いや、当時はこんなクソ腐臭強めな、ラクーンシティの教会みたいなブログになる予定無かったんですけど、ほんと、どうしたの? 何か辛いことあった?

 

台湾、出国前に日本でWi-Fi予約したのに、完全にこちらの手落ちにより(日本で一度ログインしとかないといけなかった)(一度もログインせずに出国しちゃった)完全な無用の長物と化したとか、桃園国際空港で降りたら、なんか予想以上に台北市内が遠かったとか、桃園国際空港から取り敢えずバス乗って市内移動しよって思ったら、窓口のオバちゃんに英語通じなくて、メモ帳と漢字が大活躍とか、結局「乗り換えしろ」って言われたことがわからなくてバスに乗りっぱなし、そのまま松山空港まで乗って行ってしまうとか、なんかホテルの空調が一晩でポストカードふやかすレベルの湿気を放ったり、鍵がイカれたトランクを百円ショップ(みたいな)にて購入したハサミでぶっ壊して開錠したとか、あと、台湾のゴキブリは日本で見るのよりなんかフットワーク軽め色も浅めで、最初はでっかいコオロギだと思い込んでいたとか、九份に昼間に行ってしまったばっかりに、人波見てゴキブリ見て帰ったとか、タピオカや豆花の存在を知らない(当時そんなに流行ってなかった)なりに回った台北でも色々あったんですけど、ここではマッチング相手に出来なかった、ガオティエの話をしたいなと思います。

 

台湾高速鉄道! 要は新幹線です。台北から高雄まで、一時間から二時間で結んでいます。外国人(中華民国以外の旅券所持者)は、数日間限定の乗り放題チケット有! 当時はオトクかどうかわかんないけど、取り敢えず購入した記憶がある。同行者が持っていた昨年度版るるぶと、私の所持していた台北フォーカスのガイドブックでお前、よく台北から出ようと思ったなというところなんですけど、例のように前準備がゴミ。

乗り放題チケットを入手するにあたり、五年前は、同行者手持ちのるるぶ(その時点で昨年度の情報)を参照し、現地の日系旅行代理店にて、なんか引換券を購入して(だいたい一万円)、そこで受け取ったバウチャー?と、パスポートを台北駅窓口で見せて、チケットを取得した覚えがあります。

 

www.jtb.co.jp

 

www.taipeinavi.com



ちょっと調べてみたら、私が旅行した翌年から、ウェッブで予約できるようになったみたいです。ハッピー!

 

周遊権を獲得しガオティエを駆使してどこに行ったかというと、高雄と台南の二都市。三日間チケットだったので、帰りに桃園まで乗って、いい感じに使い切ったかなという感があります。

それにしても、桃園から桃園国際空港までのシャトルを探せ!クエストとかが発生して、トランク転がしながら駅構内ダッシュ決めた記憶があるんですよね。ほんと綱渡りだなお前の旅程。

以下、どんな感じに下調べ無く現地に赴き、状況が穏やかながら混迷を極めたかについてを、記憶に残っている限りで、記していきたいと思う。

 

一往復目:台北⇔高雄(高鉄の駅名としては「左營駅」)。

何で高雄を行先に選んだのか記憶がない。多分駅名を知っていたからというのと、後はなんか、南端だったからじゃないかな。

高速鉄道の乗り込んだホームの雰囲気が極めて日本的で、少し驚いた記憶がある。開放的な天井から垂れ下がっている歓迎の幕に、何でか知らんが相撲レスラーが描かれていたからだ。九月で旅行ハイシーズンだったと思うんですが、矢張り平日ということもあってか人影はまばらだった。

まだ日が高い午前のうちにバスに乗って龍虎塔へ向かい、龍虎塔に入りがてら、この後台北の湿ったホテルで水分を目いっぱい吸い込み、書いた側から文字の滲んでいくことになるポストカードを貰った。龍虎塔の内部は、イッツアスモールワールドを仏教ナイズドして、予算の額面を落とした感じ。

龍虎塔のある公園内は、サイクリングコースみたいな感じで当時から既に整備されており、公園の地図を見た感じ「徒歩で左營駅戻れるんじゃね?」という誤判断をやらかしたか、或いは普通にバス乗って左營駅に戻ろうとしてわけわからないところに迷い込んだかなんですけど、この辺りで一度大きく道に迷う。当時のカメラロールを探していても、撮影地のはっきりしない謎写真が多くて、正直怖い。

 

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やたらと輝く湖面

 

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多分玉乗りをしている何らかの動物


事前の準備不足としか言いようのない現象により何かと彷徨った高雄で一番印象に残っているのは、美麗島駅だ。高雄メトロの萌えキャラによるツインテールウルトラマン)に興奮する外国人画像構図をトレスした公式ポスターとかいう、何がなんだか訳がわからないものとかもあったんですけど、やっぱ色々差し引いても、こう、美麗島駅。

 

www.travel.co.jp

 

調べたところによると、アメリカの会社によって「世界で最も美しい駅」ランキング第二位に選ばれたりしてる駅、一面がステンドグラスです。綺麗。フリーのピアノも置いてあった気がする。ちょっとした教会というには、にぎやか。

 

高鉄の終電までにも時間があり、台北に戻っても敢えてすることの無かった我々は、ここから高雄港に向かって歩いた。特に意味のある行動ではなかった。

地下鉄の適当な出口から出ると、高雄港までは、ほぼ一直線に進めば良いようであった。天井一面がステンドグラスの現代的な改札周辺と比較し、地下鉄から出て来たところの出入り口は奇妙に鄙びていて、あの生臭い港の臭いが薄く漂っていた。空には淡い橙を基調に、様々な色合いの暖色が棚引く時分だった。

 

地下鉄から上がって暫く歩いていると、右手に広場が見えて来た。そこの光景をよく覚えている。

老若男女が凧あげをしていた。通り過ぎた道沿いにスパイダーマンとか、ドラえもんとか、キティちゃんとかの凧が売っていたんですけど、どれもタコの尾の方に虹色のリボンがついていて、空を滑空すると、その虹色の帯が夕日に棚引いて、きらきらと綺麗だった。以来、高雄と聞くと、この景色を一方的に思い出す。手前勝手な楽園イメージを重ねているのだ。

 

我々は凧あげをしなかった。楽園を横目にそのまま一路、海に向かい歩いていくと、なんか、その内に、謎のオブジェが林立し始めた。色とりどりのミシュランみたいな奴。

 

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今思うと、多分これだ。

しかし当時は高雄港について何の前情報もないまま無為に歩いていたので、現代美術的なアレだなということしかわからなかった。辺り一帯は日没し、比較的広い道路の先、並ぶ赤提灯(恐らく夜市だ)を遠目に、カラフルミシュランが左右に控える謎の道を歩いていくと、倉庫のような場所に出た。やっぱり間違いなくあれ、駁二芸術特区だと思います。

赤煉瓦造りの倉庫と地面に敷かれた廃線路。倉庫の壁面にへばりつく頭無し巨大イモリ。ライトアップされたきゅうきょくキマイラ。プラスチック製のフラウィーちゃん。脈絡のない交通標識。日没後の黒い海面。

ライトアップされた現代美術的オブジェに取り囲まれ、異様な雰囲気の一角の中、唯一まともそうな白い灯りのついている倉庫があった。その中に案内もあるみたいだし、取り敢えずちょっと入ってみようとしたところで、男性に止められた。営業時間外だったそうです。

日本語ドイツ語中国語のトリリンガルらしい男性は、「また明日来てね」と言っていた。ゲームだったら多分、翌日行ったらパーティーに加入してたと思う。結局翌日は台中に行ってしまったので男性をパーティーに加入させることは出来なかったんですが、惜しいことをした。

 

その後オレンジの光を名残惜しく思いながら美麗島駅へ戻るのですが(※前述の通りWi-Fiが無いので自分たちの勘で歩いているのだ)、道中完全に日没していて、また来る途中にまっとうな道を外れて芝生を通ったこともあってか、クソクソ迷った。

廃線になった線路を辿りながら、しじまの向こうに見える程の街の喧騒を目指して、最早暗い芝生というか、草むらの上ひた歩いていくと、廃駅に辿り着いた。ホームによじ登り表示を見る。高雄港とあった。出口はない。

思い返すにつれ、あそこで不審者とエンカウントしてたら確実なゲームオーバーだったなと思ってるんですけど、何だかんだフェンスの切れ目を見つけて脱出しました。街路灯に照らされた車道沿いの道に、心底生きているという感じがした。文明!

しかし、特に美麗島駅以降のでオレンジの街路灯やライトアップに照らされた記憶、どれもこれもちょっとヤバいというか、トリップ? みたいな感じが強い。いやまぁトリップには違いないんですが。

 

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旧高雄港駅 記憶を元にインターネットで検索してる今はトリップ状態の記憶を色々補完出来て楽しいんですけど、当時現地にいた私の心境は手ブレがよく表している


 

二往復目:台北⇔台南

台南である。

こちらは元々目的地が決まっており、ゼーランディア城目当ての旅行であった。

なんでも、17世紀頃に台湾南部は一時オランダ東インド会社の支配域に入っていて、その当時に建造された台湾最古の城塞なんですけど、その後明末清初のごたごたで大陸から追い出されてきた鄭成功がそこを襲撃、東インド会社を追い出して根城にしたぜ!って感じの城です。レンガ造り。現在の史跡として向こうで通じる名前は安平古堡(あんぴんこほう)。

名前調べて来たし、まぁ最寄りもわかる、行けるっしょ!と意気揚々と我々(というか、私だ。同行者は史跡に関心がないが、「お前が好きなようにすればいい」と私を野放しにしてくれていた)台南駅のバスターミナルから案内を片手にバスを探していると、おっさんが後からついて来た。

いや、白シャツパンツのおっさんがこっちめっちゃ見てるし、歩いてくる。森のくまさんよろしくスタコラサッサすると、おっさんもスタコラサッサしてついてくるんですね、後から。

最終的に捕まってヒエッお助け~~~~~~ってなってたら、「お前らどこに行きたいんだ」みたいな会話イベントが発生しました。台湾、割と謎の善人イベントが多い記憶がある。運が良かった。

 

しかしこの台南駅、鉄道駅としての名前は「沙崙駅」なんですけど、台南中心部から結構離れている。バスが高架に乗り込んだ時、私は正直ぎょっとした。えっ、そんなに離れてんのは、正直想定外だった。

高雄駅(左營駅)はメトロが直結だったので余り考えたことがなかったんですけど、台南編では私が目的地を定めていたこともあり、周囲のことを余り確認していなかったので、何か新幹線の駅と建物の壁に書いてある駅の名前違うわ~~~って感じで、沙崙駅の名前だけ控えた状態での異国on高速。心は地獄。台湾の高速道路、私の走った路線は高架式の所が多かったんですが、橋げたというか、あの脚の部分が、日本のものより随分スマートでいらして、通る度に勝手にヒヤヒヤしていた。気分はジェットコースターのチキチキチキチキって言いながら、上に昇ってる時のアレ。神経が見る見る内に、音を立てて細くなる。キュッ

まぁ(体感で)随分走ってから高架を降り台南市街に近づいて来たあたりで私は諸々を諦め、というか、神経が細くなる余り、なんかあらゆることに現実味を無くしてしまった。

ねじ式的な眼医者看板をいくつか見たが、当時の私はねじ式を知らず、アッなんかインターネットでよく見る奴だと思っていた。また、車窓からは駐車場のある回転寿司屋の求人垂れ幕が見えた。都内の時給を知っている者からすると、恐ろしく低い値段だ。極めて傲慢に、当地の人々の暮らしについて思いをはせた記憶がある。

 

「安平古堡」のバス停で降りてからゼーランディア城までも、結構距離があった記憶があるが、どのように行ったかは正直、もう、記憶にない。事前に台北のホテルでグーグルアースで確認しスクショをした通りの道を歩いたか、或いは何となく人が流れていく方に歩いたか、それかなんか、看板があったのかもしれない。

ゼーランディア城に到達するまでの間、二つの恐らく観光客向けの青空市場を通り、一つ城下町のような参道のような所を通り抜けた。

九月。建物は皆低く、日光を遮るものは店先の僅かな影の他、殆ど無かった。暑くて暑くて仕方がなかった。緑のペットボトルに詰まった青草茶という、茶というには甘いが、ジュースというには砂糖みのない液体を購入した。ドゥオーシャオチエンと値段を聞いたら、片言にしては流暢だが、間違いなく母語ではなさそうな雰囲気の日本語で返って来たのが、ここだった。

台湾を歩いていると時々、日本語が通じる老年の人がいるんですが、彼等と接触するにつけ、個人的には、身の置き所のないような気持ちになっていた。何もかもは覆りようのない歴史であり、それは私個人に関わるものではないんですけど、人間は社会的な生き物なので、国家によってそれぞれの人間の生活保障をする枠組みの中に居る以上、どうしたって、ルーツからは逃れられないのだ。強制の記憶があり、加害の記憶がそこにあることを、むざむざと目の当たりにする。店を切り盛りしていると思わしき老夫婦は笑顔だった。日本人観光客にも慣れているのだろう。

ゼーランディア城が見えて来た当たりでなんたらビン(餅)と銘打たれたピンク色の饅頭モドキを購入した。中央に安平と印が打たれていてなんだかご機嫌だと思ったからだ。多分白もあったと思う。柔らかいものを期待して購入したが、固かった。まぁ食べれる味だった。中は空洞だった。

 

ゼーランディア城である。

煉瓦造りの城であり、内部は発掘調査の結果出て来た焼き物の欠片や、現地の歴史の流れについて解説してくれる、結構お金が掛かってそうな展示があった。

当時の大砲や鄭成功銅像オランダ東インド会社の残したなんか、色々な遺物等見ていて、かなりエンジョイしましたし、物見やぐらというか灯台みたいなものもあって、その展望台から台南の市街地が一望できたりして(建物が全体的に低いのでそんな迫力ある景色ではない。解説を一通り見た後だとテンションは上がる)私は楽しかったんですが、生物系の同行者は人知れず熱中症になりかかっており、最後の方は「お前が楽しければいいから好きに見て回ってこい」と、常ならぬ寛容な事まで言い出していた。彼女と私は中学から面識があるが、それほど優しい言葉を掛けられたのは、あれが最初で最後であった。中学時代、彼女からのファーストコンタクトは「うわ、キモ」である。

 

ゼーランディア城からの帰還が、一番骨が折れる放浪だった。

取り敢えず城から出て、足取りがヤバい同行者を休ませるためカフェを探したが見つからない。天皇御用邸というか日本の天皇も訪れました!みたいな施設を通りかかって、フリーエントリーだったので屋内でキメッキメのポーズで写真を御取りになってらっしゃる中国人カップルを脇目に、木陰に休んだりはしたんですけど、中々大通りにも出ない。

赤緑の郵便を横目にバス通りにようやっと出た頃には恐らく三時、気温が最も厳しく、同行者も結構ヤバそうだった記憶がある。その状況下で飛び込んだ、Wi-Fiフリーと書かれたカフェが極楽浄土だった。もう店の名前も思い出せないが、客が居らず空いていたその現代的な店には英語のメニューがあり、クーラーが効いており、冷たい飲み物を口にしていると、店主と思わしき男性がカウンターから出てきて、ベルやジンジャーブレッドの形をした一口大のカステラを机に置いて、「サービスだから食って行ってくれ」と言ったのだ。地獄に仏か? 

駅までの行き方や、周辺のバス停の地図まで見せてくれた記憶がある。この店主は以降の旅行中に出会った人物の中でも、トップクラスの聖性を放っている。神。マジ感謝。お陰で台南駅まで戻ることが出来たんですけど、ここで問題。バス移動によって降り立った豪華な建物、推定漆喰の壁にハイビスカスをあしらってるこの台南駅は、「台南市の市中心部に位置する。台南の玄関口として市を代表する中心駅であり、縦貫線の全列車が停車する。台湾最西端の駅。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』最終確認日2019年4月29日)」であり、台南駅 (台湾高速鉄道)ではないのだ。

エッ違う駅じゃん!!!!!! まぁ一応、何か違う駅だなってことは察してはいたんですけど、思いのほか全然見た目が違う。

そこで駅員さんを捕まえ「シャーリン」「シャーリン」と喚いていると、制服の駅員さんが面倒臭そうに出て来て、代わりに券売機で切符を買ってくれた。 日本で言うところの一昔前の券売機で、イングリッシュも無し。わりとマジで操作の仕方がわからなかったので、本当に助かった。

切符を片手にプラットホームへ行き、なんかレトロな雰囲気の車両に乗って暫く暮れなずむ車窓を眺めていると、台南駅 (台湾高速鉄道)、もとい沙崙駅に到達した。

そこからやれやれと台北に戻る途中に、行きがけに鍵ぶっ壊れてやむなく壊したトランクが、ジッパーの口をキーでロックする方式で、どうせ代替の鍵を買うんだったらばちょっとした南京錠を買うべきところ、普通に忘れてダイヤルロック機能の付いたトランクの胴体に巻くベルトを買うとかいう、わりとわけわからない散財の仕方をこの駅でするんですけど、それ以外の散財として、空腹を持て余し駅構内で買った豚の角煮弁当を食べた。

ほんと、トランクはマジでただの無駄遣いだったんですけど、この台南で食べた豚の角煮、ほんとうに美味しかった。

高雄でも空腹を持て余して、駅構内で安い煮卵を食べるなどしたんですけど、ハッカクですかね? なんかスパイスが効いた味のする台湾の食べ物、めっちゃ美味しい。アレを思い出す度、幾度となく台湾に行きたくなる。結局あれから行ってないんですけれども。

でもなんか、このブログ書くためにちょっと調べたところによると、桃園国際空港と台北市内の間に、メトロが開通したらしいですね? 超行きやすいじゃん。西門西門!ってバス窓口のオバチャンに喚いていたアレ、何だったんだ。ほんと、公共交通機関最高。行きやすいじゃん。是非また行きたい。

そういえば鉄オタに最後に振った話は、この台南の駅弁の話でした。

君も、そういう話聞くと台湾にまた行きたくなると、そういうようなことを言っていましたね。

スマホぶっ壊れが発生して、アプリがもうどうしようもないことになったこの世界線では、これまでの縁なのでしょうが、世が世なら、そういう未来もあったかもしれませんね。

 

ところで、この旅行を同行して下さり熱中症の危機に瀕した寛容な同行者なんですが、当時交際三か月だった先輩と、今度結婚するらしいです。

時よ!

 


星野源 - 時よ【MV & Album Trailer】/ Gen Hoshino - Tokiyo