メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

キャラクター関係性オタクが「ミッドサマー」(2019)を見た感想

note.com

 

最近イベリア半島に旅行に行った。その記録をnoteに書いている。もしよかったら見ていただけたら嬉しい。ついでに哀れみも欲しい。

 

以下の記事の内容は表題の通りだ。「ミッドサマー」で上質なアマルガム(amalgam)を視聴したので、その感想を記録したい。

アマルガム(amalgam)って何? 

Weblio英和辞典によると、「合成物、(様々な要素の)混合物」*1

Wikipedia(日本語版)によると、「水銀と他の金属の合金の総称」とある*2。なおこの記事での「アマルガム」は、Wikipediaで解説されている動詞・amalgamate「混交・融合する」の意味するところに近い。

ちなみに私がamalgamという単語を知ったきっかけはUndertaleなので、内容を知っている方は例のアレをイメージしてほしい。アレ、研究所で出てくる、ゆめにっきのウボァみたいなやつだ。アレのイメージ。

 


映画『ミッドサマー』予告

 

*1:Weblio英和辞典「amalgam」,https://ejje.weblio.jp/content/amalgam,最終閲覧日2020年2月22日

*2:Wikipedia日本語版「アマルガム」, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%A0, 最終閲覧日2020年2月22日

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私はROMになりたい(コミュ不全字書き負の二次創作者ですが正の二次創作者がTLで繰り広げる同病の他者/界隈での交流・交歓を望んでしまわないために西方浄土へ行くことにした)

 

「私はカイになりたい。平和な世界で口を開けたり閉めたりするだけ。」(川添昇)(川添康子(1960)『METABOLISM 1960 : 都市への提案』美術出版社)

 

「同人小説なんかを書かずにいられる人生が一番幸せ」メーデー!』(2019年12月12日)

 

 

以下は自己分析のための文章で、まず前提として、私は二次創作を宿痾として患っているんですけど、これを患っているときの精神は、一定の周期を経ながらぐるぐると回っている。どういうことか? 二次創作をほぼしているのは間違いないんですけど、それをしている精神状態が割と定期的に変わるということです。

では、どのような周期があるのか。第一に、自分の性癖や幻覚を実体化させることしか考えていない時期。この時期に他者からのフィードバックを頂けると無論嬉しい。他方、この時期は他者の反応に対して割くキャパシティがあまりないので、フィードバックの無や負のフィードバック(「反応がないことが反応」であるといった認知のゆがみ)を気に掛けるということがない。エゴサもしない。文章は書いている。

第二に、「自分の文章は他人の精読に耐えうる日本語を成しているのか否か」がやたらと気になる時期。この時期に他者からのフィードバックにやたら執心するし、バリバリエゴサもする。わけのわからないワードで検索して、他者の目から見た自分を見出そうとする。そしてフィードバックの無いことに愕然とし、自分の文章は実は日本語ではないのでは?というあらぬ疑いを持ち始めたりなんかもする。文章は書いている。

第三は、実態として第二の時期とほぼ変わらない。ただ、他者を恨んでいる。第二期を極端にしたような状態だ。第二期のエゴサによって他者と自己の比較を覚えた精神が至るものであり、交流に向かない人間は何をしても駄目だということを繰り返し思い知るために、かえって交流を試みたり、活動的にふるまってみたりすることもある。なお文章は書いている。多分そういう病気である。

周期の切り替わりは前触れがなく、これといった切欠もあまりない。強いて言えば手を染め始めたばかりのころはおおむね第一期、他者と自己の比較を覚えた辺りで第二期と第三期を繰り返すような浮き沈みの傾向がみられる。しかし時々第一期まで気持ちが戻ってくることがあるし、書くだけ書いて公開を試みると、第二期・第三期に戻る。であれば文章を書くだけ書いて、公開しなければいいのでは?と思わなくもないが、私は文章を公開することでいつでも自分の文章にアクセスしたい性分なので、文章は公開する。公開すると自己と他者の比較をしたり云々で、世を恨み始める。

ここで公開しているのが学術的なレポートとか論文とかならまだしも、二次創作の文章である。生産性ゼロ、およそ公言できるタイプの趣味ではない。莫大な時間を費やし性癖の自家発電と自損事故を繰り返している。マッチポンプか? まずツイッターをやめろ!

 

正論は横に置くとして、主に第二期・第三期において、他者の目に映る自己を探らんとネットサーフィンをしていると、主にツイッター地方で、様々なフジョシの生態を見ることになる。

「合同サークルで原稿の進捗状況を励まし合っているアカウント」「感想がないことが感想であると覚悟を決めたツイートをする絵描きのアカウントと、作品の趣旨の自分への伝達を主張するフォロワーたちのアカウント」「サークル参加後に何らかの界隈への感謝を述べるアカウント」「(カップリング名)全然無い…とツイートするアカウント」 、

なかでも、「日頃他者のツイートをリツイートした後、「すごいすき」等何がしかの感想をツイートする習性があるアカウント」、これは弊アカウントのツイートをリツイートした後、特にこれといった言及をせず今日の夕飯の内容をツイートしたり、第三者のツイートをリツイートした後にやはり「〇〇さんの▲▲~!」と言及したりします。

後は、弊アカウントのツイートをいいねしたあと、「リツイートするかどうか迷いながらめっちゃいいなと思ってる」というようなツイートをした後、他者の創作をリツイートして手放しに感想を述べていたりします。

その他、局地的界隈のインフルエンサーリツイートされたやんと思ってみたりすると、前後のリツイートが割と伸びてて弊アカウントのツイートは手付かずの世界だったりすることもある。

 

人に、好かれない!

 

こちとら何がしかのレスポンスを求めてゾンビのごとくインターネットを徘徊する自意識モンスター。精神衛生のため、いいねされた事実とか、閲覧数がついた事実を幸福に思うべきだと思うんですけど、特に閲覧数については私が一番増やしている自信があるので、それだけ見てもぶっちゃけ他人が見てるのか自分が見てるのかさっぱりわからない。

イベントに参加して界隈だとか人間だとか世の中の万物に感謝しているように見えるアカウントも、こういう対応差を感じたことはあるのだろうかと考えることがある。他者に見られるために創作をしているわけではない(症状なので)が、対応に差があるのを観測するぐらいなら、最初から全く無視されたいとすら願うことがある(極端な思考)。

ならばインターネットに文章をアップロードするべきではない。それはオンラインで自作を見られないので困る。ので、インターネットにはどうしようもなくアップするんですけど、インターネットで観測できる二次創作者って、タグにいいね着けられたので相手の専攻分野(カップリング)に寄せた思考をお出ししてみたらなんか逆鱗に触れたのか二度とリプライ来なくなったり、「こっちのアカウントはフォロワーいないから安心して妄想呟ける」って言ってる他者のアカウントを謎に慮ってしまって、フォロー外で観察してたら「なんかいいねしてる人いて気持ち悪いんだけどどうしよ(意訳)」ってツイートされたりしたことある? 

後者については非公開アカウントからいいねしてたらそうなるかなっていうのも確かにそうで、ブックマーク機能を使いこなせよ。自己顕示欲の強いネットストーカーか!?というのもごもっとも、私のテンションがちょうど第三期にあったこともあり、咄嗟に突撃弁明リプライをして許しては頂けたんだがどうなんだかみたいなところなんですけど、多分この当該のアカウント、私が二次創作を公開していない、普通のROMのアカウントだったら、私のしょうもない感想に関心を持っていただけたりしたかもしれないし、リプライをした時点で、何がしかの交流を持てたのでは? ということを、時々思う。

別に、ツイッターの交流に人生の全てを期待しているわけではないんですけど、ツイッター上で観測できる他者が、あまりにもまぶしすぎるのだ。私も原稿作業を励まし合ったり装丁を頑張って他者に認められたり、思考の排泄物状態といっても過言ではないインターネット上の文章はこの際もういいので、それを頑張って本とかにしたときに、〇〇さんの本のこういうところが~っていう、ようわからんフジョシの推薦文をつけたりして貰いたい。

サークル参加でもそうでなくとも、他者のコメントに喜びを感じたり他者と交流したり、気兼ねなく他者の作品にコメントしたりしたいんですけど、原稿作業を励ましてくれるような存在も装丁に掛けるセンスも労力も、人に好かれるような魅力的な言葉選びもないです。

何なら、二次創作をしていることによる弊害の方がでかい。一にも二にも人に好かれないし、インターネットで好かれないことをネタにしているのでより好かれない。イベントに参加してサークル参加者同士で肉を焼いたり他者の本の感想をつぶやき合ったり、差し入れを撮影してツイッターにアップしているのが「正の二次創作者」とすると、イベントに参加してずっとスマホでブログ書いたり、二次創作によって思想と身元が知れていることから交流以前に先行ブロック頂いていて他者がリコメンドしてる作品を見られなかったり、他者から受ける対応に先述のような差を勝手に感じたりしているのはぶっちぎりで負、負の二次創作者。負女子じゃん! 正の二次創作者の骨頂たる大手がツイートする幻覚の骨子の方が、ぼくの冊子形態より伝達力が強いです。

 

そうやって思考の負女子を極めると、逆にあえて同人イベントにサークル参加したくなる。

いっそのこと、大っぴらに拒絶されたい! 他者が思想の交歓に興じている場に、異物として確かに存在したい。はす向かいにブロックしたサークル主がいて囲いの目が怖い気がするとか、ブロックされてるけどあそこのサークルの頒布物が欲しいので身元が割れないうちに貰いに行くとか、サークル間違えて駆け寄ってきたフジョシが笑顔をそぎ落とした顔で横にずれていくのとか、そういう異物体験を、4DXよりリアルに感じたい。遠目でひそひそこっちのお品書き見ながら喋ってる肉のあるフジョシを、見たい! 明確な腫れものになりたい、存在に対する苦情が欲しい! 

いや、もっと他に建設的な心掛けをしろ。まずこのブログをやめろといったところなんですけど、他者と交流を持とうにも、良かれと思ったことが裏目に出まくってるのか、そもそも私のそういう態度が駄目なのか知らんが、一方的な観察で他者を怯えさせたり、気遣い気取って相手の専攻(カップリング)に寄った思考をしてみたら、二度とリプライが来なくなったりする。

もちろんツイッターが社会のすべてではないし、私もブロックは気軽にするので全然かまわないんですけど、ツイッター上で見える社会があまりにもまぶしすぎて、二次創作ってそんな楽しいものなのか?ということを、時々勘違いしてこうも荒れるのだ。

 

そもそも私の書く文章自体、伝達や交流という点では問題がある。人にものを伝えようという意識がない。指導教官に何度一文長すぎという指導をさせたことか。博士号持ちを唸らせる悪文と考えると、恐ろしく戸口が狭い文章だし、私自身人に伝えるために分かりやすくしようという気概がない。自分さえ読めればいいと思っている。

そうすると当然読みづらいので、他者が他者にリコメンドされたり感想を呼び水にさらに読者を広げたり、そうやって界隈概念を形成したりするのを遠目に見る感じになるし、絵を描いてる人間からすれば文章は読まない、文章を書いたり読んだりする習慣のある人間からしても怪文書を量産しているヤベェ奴状態が発生する。

二次創作って、そんなに楽しいものか? 二次創作をしていることによる弊害が、あまりにもでかい。間違いなく負女子に分類されるだろう私のアレを読んでくれる人間は神、あるいは、「私が書かなければ自ら創作に手を染めかねないリテラシーと鬱屈を持った人間」に限られる。なのでまれに反応をくれた人間は、各自自分が書かねばならない他の鬱屈を見つけながら次々成仏していきます(私もジャンルによっては成仏して過ぎ去るROM専になることがある 人生は短い)。

となると、わたしの宿痾、ただ見辛いだけでなく、ともすれば、書く動機足り得る鬱屈を持つ人間を、昇華させるものとして機能しているのでは? 

 

他人とある程度文脈を共有する二次創作でこれ。人に好かれないので同病から避けられますし、おそらく類似の鬱屈を持った人間を成仏させてしまうので周囲に生まれるのは真空地帯。他の創作者は書いているから「〇〇さんの▲▲」という形で同病の他者と自己を比較したり、それで界隈という疑似社会が生まれていくと思うんですけど、書いているからこそ得られる対人利益は無。書いているから、不利益を被る。無論消費されるだけマシだが、類似の鬱屈を抱えたような人間は一瞬現れて、時に私に謝意を述べてくれると、一瞬で過ぎ去っていく。

他者が見えずにひたすら出力に躍起になっている時期を抜けて、他者の存在との中で自己を定義し相対的に評価したがる社会性段階を迎えてしまった時点で、同人小説なんか書くべきではないのでは? 

誰か助けてくれ。文脈を共有する他人がどうか書いてくれわたしの鬱屈を。ひとつの小説があるだけで、何人が告発を免れるだろうか。わたしの代わりに誰か告発してくれ。頼む、わたしを成仏させて……そうしてきょうも他者の楽しげなつぶやきを、まんじりもせずに見ている。そういう趣味なので……

 

こういう思考を持って私、うっかりまた負女子孤立極まるサークル参加を再び試みかけたんですけど、ブログに思考を書き残していた過去の私が、サークル参加するぐらいだったら南米に行った方がマシだって言っているのをわたし思い出して、丁度卒記の時期ですし、タイムラインが前提とする社会から離れた、どこか遠くに行くことにしました。

本当は地獄寺に行きたかったんですが、世は大コロナ時代。かといって「コロナだったからね」と、社会が来年に私に卒記旅行をさせてくれるわけでもないので、コロナから遠そうな西方浄土、ヨーロッパさんにいくことにしました。

航空チケット予約の手は本当に早くて、他者にリスト追加を乞うリプライを送るよりも、他者の募集に名乗りをあげたくなる気持ちと向き合う間に、リプライがどんどんついて締め切られるまでをまんじりもせず見守るよりも、私に言及していそうなツイートを見掛けてはリプライを送るか迷い、結局リプライを送っても何ら話が深まるわけでもなく、自分がいかに他人から話を引き出すのがドヘタクソか思い知る時間よりも、何よりも早かった。孤独は速度。

連れ合いはいなかった。大概皆社会人か、もっと賢い時間と金の使い方をしている。大枚はたいて命乞いをしにいったりなどしない。まして大コロナ時代である。この時期にヨーロッパなんか行ったら、乗車拒否とか宿泊拒否とか入場拒否とか、満を持してされそうじゃない? 自己の存在に対する、明確な拒否の眼差しを受けにいく。わたし、腫れ物になる!

 

そう思って意気揚々と阪急交通社のスペインの概要サイト見ると「首絞め強盗」とか「睡眠薬強盗」が強盗の古典らしいです、スペイン。ヨーロッパですよね? せめて平和的にスって欲しい。「首絞め強盗」への対応策は「無抵抗 大人しく所持品を差し出せ」だそうです。

続いてポルトガルの概要サイトを見ると「女性の独り歩きに注意!」だそうで、好き好んで女性で一人で歩きたい訳じゃない。女性でありたい訳でもない。選べるならマイク・タイソンになるか友人と一緒に卒業を記念したい。修士課程は孤独、孤独は速度です。

悟空も沙悟浄猪八戒も道すがらで見つけられる自信がない(見つけられたとしてパーティーを維持させられるコミュニケーションを取れない)ので、せめてインターネットととのつながりは持ち続けようと思って、普段はポケットWi-Fiは高いから借りずに現地のWi-Fiに頼り切りなんですけど、丁度イモトのWi-Fiで半額セールを3月31日までやっていたのもあったので、借りたWi-Fiと一緒に旅行することにしました。

 

ところでWi-Fiと一緒に旅行するにあたって、前回借りたWi-Fiと旅行した時、スマホが勝手にうっかり電源を落とし忘れていたWi-Fiと接続してソフトウェアアップロードを始めたために残量が終焉を迎え、金を出して無用の長物と化したWi-Fiと一緒にアウシュヴィッツ強制収容所跡地を巡った経験を繰り返さないため、ここにアンドロイド自動更新の無効化に関するメモ書きをします。

 

機内モードにする これは空港でやる。データローミングが発生すると路頭に迷うことになる。

 

②アプリの自動更新を止める グーグルストアの設定からできる。

appllio.com

 

③OSの自動アップデートを止める 前回はこれで容量をやられた。

システム→詳細設定から開発者向けオプションに飛ぶ そこからOSの自動アップデートを無効化する。

menulist.mb.softbank.jp

usedoor.jp

 

友だちはいないからネットにクワガタの絵を描く

 

ツイッターで生きているとたびたび、「光の腐女子VS闇の腐女子」というような構図の話題が現れては消え、現れては消えていく。これ以外にも「暁の腐女子」みたいな分類もあるらしい。

その話題が出現するたびに、タイムライン上に並み居るアカウントたちは、自己の妄想の方向性を手際よく分析し、次々と自己を表明していく。時々「〇〇さんは光の腐女子だと思ってました~」だとか、「▲▲さんは創作は闇の腐女子だけど思考は光の腐女子」とかいう、他人による他人の他己分析を見ることもある。ツイッターのアンケート機能でなん、かアンケート取ってる奴もいる。

いいな!!!!!!!!!!!!!!!!私も自己分析したい!!!!!!!!!!!!!!自分を定型文に落とし込んで安心したい!!!!!!!!!!!!!!そうやって定型に落とし込む過程で、他人にわたしの創作傾向とか分析してもらいたい!!!!!!!!!!!!!友だちがいない。


光の腐女子なんだか闇の腐女子なんだかの一つの境界線としてよく知られているのが、「妄想の中で最終的に、その二人をどういうエンディングに持っていくか」だ。「腐女子属性診断テスト」なるものがあれば、多分最初にこの質問をされるだろう。「Q1、あなたはハッピーエンド、バッドエンド、どちらにグッとくる?」である。

私はこの時点で、分類不能に陥る。そもそも「幸福」か否かを定めるのは主観であって、主観の位置によってハッピーかそうではないかは変化するのでは? 見方によって変化する問いは不適切だ。「質問を変えよう。」と、内なる私Aが言う。

「じゃああなた、自分の創作でキャラクターを「幸福」にしたいと思っている?」

内なる私Bはそれに答えて、「幸福であってくれれば、この上ないけれど」と前置きをした上で、「別に幸せになってほしいわけじゃない」と言い出した。

 

話は変わるが、ツイッターで生きていると、光の腐女子闇の腐女子論議よりは少ない頻度で、「好きになるキャラクターの傾向」というような話題が時々、墓の下から蘇るようにやってくる*1

黒髪とか金髪とか短髪とか長髪とか、生き様とか死にざまとかポジション(主人公、主人公のライバル、主人公の親友、ヒール、など)とか、なんか様々な性癖をもって、腐女子*2が、色々な自己のアイデンティティを表明してくれる。うらやましい。私も自己の性癖の傾向を明らかにして、新たなジャンルへの傾向と対策にしたい。

私も自己分析を開始するために、歴代のドツボにはまったカップリングを並べてみるが、外見的特徴の共通点がマジで見当たらない。好きになるキャラクターの外見に、一貫性がないのだ。ゴリラ体系だったりモヤシだったりする。

というか、おそらく私は、二次元キャラクターの外見に興味がなければ、大した拘りもない。最近ヒプノシスマイクの弁護士を見て初めて、「顔が良いと思う」という感想が出た。我ながら驚いた。「顔が良い」という形容を、私はこれまで自分の飼っているハムスターにしか向けていなかった。あいつはマジで顔がいい。すごい なんというかこう、顔のオーラというか、透明感? が、違う。

 

 

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これは顔が良いハムスター

 

そもそも自分の傾向を考えてみると、私は「キャラクター」というより「カップリング」に先にはまり込んでいる気がする。じゃあそもそもお前、どういうカップリングが好きなんだ?

自分が好むカップリングの傾向を考える。フジョシは自己の関係性への傾倒も上手に分析して言葉にし、自己主張してくれる。自己の傾向どうしてああも的確に把握できるのか? 私の疑問なんて本当に知る由もないフジョシAは、「私はこれが好きです」と簡潔な言葉で明言してくれる。同じように的確に自己の性癖を把握している腐女子Bが「〇〇さんもですか!?」とリプライを送る。そのうちその人らがサークル参加後に飲み会をしたりスカイプでチャットをしたりして、ツイッター上で以前程観測されなくなる。ツイッター社交の世界である。そう! このSNS時代において他者と交わるには、まず自己の傾向を把握することが不可欠だ。自己分析が大事。5000円超を支払って占い師を困惑させる自我ふわふわスフレ状態でそんな偉業を成しえるはずがない。

ところで、カップリングの傾向にも、兄弟とか弟兄とか師弟とか弟師とかライバルとか何とか、色々あるんですけど、これまで私が二次創作に手を出す程ハマったカップリングを自分自身で並べてみても、いまひとつ共通点が見えない。ここでサカナクションが踊り始める。アイデンティティがない、生まれない、どうして?

 

かくしてカップリングから掘り下げる方向性は、サカナクションの登場により行き詰った。ここで創作スタンスに戻る。これはあくまで私の場合だが、「二次創作をするに至ったキャラクターの要素」以上に、「やってしまった二次創作が目指している傾向」を見た方が、まだ共通点が多い気がしたからだ。

 

「別に幸せになってほしいわけじゃない」

冒頭で内なる私Bが出した回答。おそらくこれが、私の二次創作の傾向で違いはないだろう。

そしてこの時点で、既に多くのアカウントとたもとを分かっている気がしなくもない。私が観測している多くの二次創作者は、「いかにキャラクターを「自分の考える幸福」の状態に持っていくか」に煩悶していることが多く、それから外れる妄想をしてしまう「自分」を叱咤しながら、それに興奮しているようなツイートをしているさまを度々観測したからだ。私にはおそらく、その「良心の呵責」フェーズが無いとまでは言わないが、タイムラインで私が観測したその他のフジョシと比較すると、それが短い、もしくは薄い。

かといって、キャラクターが辛い状態であることに、何らかのカタルシスやフェティッシュを感じるわけではない。辛い状態は可哀想だと思うし、そうあるべきではないと考える。

 

じゃあお前の好みは何なのか?と、突き詰めるようにして考えていくと、おそらくそれは「闘争」にあるのだろうなと、わりと年単位でこの創作スタンスだの自分のハマる傾向だの性癖だのについて考えてきて、ようやく最近、そう思うようになりました。

わたしは、キャラクターとキャラクターを便宜上カップリングにした上、その枠組みのなかでキャラクター同士が、自己の権利のために争うその瞬間に、大変なカタルシスを覚える。

なので、別にカップリングに幸せになってほしいわけではない。カップリングが幸せになっているものもそれはそれとして見るが、カップリングにしてキャラクターを「闘争」させるより、そもそも人間関係の成り立ちからして「闘争」の要素を含んでいるキャラクター同士の関係性を好む傾向があるので、恋愛然としたカップリングの作品なんかは、その創作者が原作で明示された「闘争」を、どのように克服しているかという点に主眼を置いて閲覧することが多い。

しかし、「ケンカップル」が好きなわけではない。「公式ライバル」とか「競い合う仲間」とか、そういうものではないのだ。

では、私が好む「闘争」とは何か。言うなれば、こう、「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」という共通テーマを、わたしはまとめて「闘争」という単語に置き換えていた。

 

「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」とはどういうことか?

ここで具体例として、弱虫ペダルの御堂筋翔くんと石垣光太郎くんの関係性(~箱根インハイ三日目まで)をあげさせていただきます。突然オタクの早口になった。これまでもオタクの早口なんですけど、ここから俄然フジョシの耐えがたい早口にトーンアップしている。

経緯は色々とあるんですが、新一年生の御堂筋くんは、持ちかけたタイマンのレースで最高学年の主将である石垣くんを下し、石垣くんから京都伏見高等学校自転車競技部の操縦権と、エースナンバーを奪います。石垣くんにとって御堂筋くんは、文字通り突如現れた異物。しかし異様に早い。自分よりもはるかに、そして、明らかに実力がある。彼はこの異物を渋々承服し、チームの勝利のために、新一年生にかしづくことを選びます。ここで描かれる異物への葛藤と受容の試み、異物からの反撃、当然覚えるような反感を飲み下す理性など、人間関係における「闘争」が好き。いや、ほんと他にも色々あるんですけど、原作でこれと明示されている中で、最も説明しやすいのがここだ。

人生に現れたこの承服しがたい、しかしそれと同時に逃れがたい異物に困惑する、憤る、抗う、諦める、克服する、足元を掬われる、さまざまな形でこの異物に「折り合いをつけていく」という過程に、わたしは恐ろしく興奮する。ここが、フジョシ用語における「性癖」であると思われる。

キャラクター同士の人間関係にハマるときも、私の場合、おそらくこの「闘争」の好みが影響してくる。先述の御堂筋くんと石垣くんのように、原作で「闘争」への可能性が明示されているキャラクターの間に発生しうるさまざまな関係性を好んで見る。

「闘争」が起こる必要があるので、互いにとっての互いの存在、あるいは、どちらか片方にとっての相手の存在は、少なからず理不尽である必要がある。それがあまりに魅力的だと、闘争が起こらないからだ。

同時に互いに、あるいは片方は相手に対して、強く執着しているとより良い。「逃れがたい異物」でなければ、闘争よりも逃走の方がより自然だろうと考えられるからだ。この執着は、必ずしも恋慕である必要はない。だが別に恋慕であっても構わない。何であれ、個人へ強く執着しているというのは、逃れがたいという条件を作る上で好都合だ。

上述した「執着」という闘争の発生条件、近年「クソデカ感情」というレッテルに収斂される傾向のある人間関係ですが、それによって引き起こされる「闘争」のあるキャラクター同士の関係性が好き。理不尽な異物から逃れがたければ逃れがたいほど、時に何らかの犠牲を払ってでも「折り合いをつけ」なければいけないからだ。

この性癖の傾向が、私の中で一番強く出たカップリングが、FGO二部二章の主従関係。逃れがたい執着にどのようにケリをつけるか。このテーマがものすごく好き。

 

ただ、私が志向するのはあくまでこの「闘争」なので、同じようなカップリングにはまったフジョシ(人間関係オタク)との間に、わりと巨大な乖離がある。フジョシのツイートの中でよくみられる煩悶の種である「幸福」を、私は最初から志向しないからだ。キャラクターの幸福を志向するなら、この二人の人間関係を使って思考をしない方がいいとさえ思っていることがある。べつに二人の恋愛が成就してほしいとも思っていない。この人間関係が恋愛の状態にあるかどうかも頓着がない(恋愛であればそれはそれで見る)。

「闘争」の過程とその結果、お互いの存在にどう折り合いをつけていくかという出された結論が何であれ好きなので、それがハッピーエンドかバッドエンドかに拘りがない。

そもそもハッピーエンド/バッドエンドとは何か。誰の目線によるものか? 基準として極めて曖昧では? 一人は心底幸せだと思っていたとして、もう一人が不本意に感じていた場合はどうなるんだ。そもそもハッピーエンド/バッドエンドの二元論で物語のエンディングを捉え得るのか? そんな ことを 言って いると 友達ができないです。

しかもこうやって自分をカテゴライズしたところで、ここに分類できる人格は今のところ私のものだけだ。これは血液型占いで私A型! O型~~~~ってやってる中で、クワガタとか言ってる奴と同じである。規定の枠の中で自己のアイデンティティを表明するから、ああいう会話が成立するのだ。

 

わたし人間関係オタク、「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」(「闘争」)というテーマが好き。

 

 


蜘蛛の糸 by 筋少

*1:管見の限り、メインジャンルを変えた直後のオタクや、ジャンルにはまりたてのオタクがこれに言及することが多い

*2:ここでは「カップリングオタク」と呼称した方がフラットかつ正確であると考える。好きになるキャラクターの傾向を自己分析するオタクは、必ずしも男性同性愛のみを偏愛する狭義の「腐女子」に限らないからだ。

骨の重さを測ったことがある

 

骨の重さを測ったことがある。

 

事の発端はだいぶ前なんですけど、2015年の9月、台北を旅行したときに、行天宮周辺で道端にテーブルを広げて、紫色だったか何だったかの重々しいクロスを掛けて、いかにも占い然としたその上に、白文鳥の入った鳥籠を置いていた男性がいた。おじさんなんだかおじいさんなんだかといったところの年の人だ。九份へのパッケージツアーの解散場所のホテルで魯肉飯を食べてから、何でだったか徒歩で行天宮へ向かう途中の道すがらだった。

当時の私は文鳥を飼っており、文鳥占いの存在を知っていた。躾けられた文鳥が札を引いてくれるのだ。絶対可愛いのでぜひみたいと思ったが、言葉が通じないだろうと思ってその場では諦めた。

しかし9月の台湾、よく考えるとめちゃめちゃ暑かった気がする。何であのおっさんは野外の、それも道端にテーブルを出していたのか? アーケードの内側ではなく思いっきり歩道、背後のなんだか洒落た低い柵のような都市型ガードレールの向こう側は、片側二車線の車道だった。なんだったんだあれ、幻?

 

2019年の8月にまた台湾を旅行したときに、そのことを思い出した。思い立って私は行天宮に行ってみたが、流しの文鳥占い師はいなかった。なので持っていたポケットWi-Fiを駆使して「文鳥占い 台湾」で検索したところ、龍山寺地下街でできるらしい。

 

akahel.com

 

tabizine.jp

 

行った。

MRT龍山寺駅直通、時刻は18時を回っておりなんだか閑散とした地下街を歩いていくと、その一角にプリクラの機械みたいにちょっとした小部屋が集住する占いエリアが現れた。エリアの前で壮年の女性が客引きをしている。だれだったか日本の芸能人も、ここで度々見ていくんだというような話を日本語でしていた。

そこで文鳥占いをしてくれと頼んだところ、「通常の占い」にオプションで文鳥占いをつけることができるという。正直私は文鳥が札を引いているところさえ見れればよかったんだが、文鳥占いだけにしてくれと二三度頼んだところ、通常の占いに文鳥占いを無料でつけて、さらに通常の占いを学生価格ということで半額にしてやると言われた。言葉の往復でなんだか交渉に疲れてきた私は、結局その値段で了承した。

ここで一つ目の反省点、自己の意思を固く持っていない。お前はそもそも占いというよりは文鳥を見に来たはずだ。文鳥占いだけでいいとゴネていれば未来は変わったのではないか?

値引き後の料金は1500台湾ドル、でもよく考えるとそれって、日本円にして5000円超で、学生の身分ではけっこうな大金だ。わたしは「2000円で文鳥占いをしてもらった」というインターネット記事を頼りに龍山寺地下街にたどり着いたんですが、後から考えるにつけて本当、その通常の占いというのが、単価が高い商品だったんだろう。しかし粘れば文鳥占いだけで行けたのでは? 人間の押しに弱すぎ、根性を持ってくれ。

 

ともかく客引きの女性に先導されて入った小部屋で暫く待つと、先生が現れた。彼女は何年か日本で仕事をしていたらしい。流暢な日本語でこの紙に氏名と生年月日、生まれた時刻を記載しろと指示をする。何でもその氏名と生年月日、生まれた時間さえわかれば、自分以外の人間の運勢を追加料金なしで見ることもできるらしい。先生は、意中の異性や仲のいい友人、あるいはなんか気に食わない奴との相性占いもできると言っていた。任意の他人の情報を記入する欄は五人分か六人分あった。結構多いなと思った。

私は自分の生まれた時刻を把握していない。私は生まれた側なので把握しようがないと思うんだが、先生はしきりに「午前か午後かもわからないか」と尋ねてくる。私がわからないと三度答えると、先生は渋々といった様子で、数字をデスクトップパソコンに入力し始めた。

 

やがて情報を入力し終えた先生から、何か特に聞きたいこと、気になることはあるかと聞かれたので、就職したらうまくやっていけるかだとか、あとは一生独り身かどうかという漠然とした将来の不安を聞く。

ここが二つ目の反省点。占いってあんまやったことないんですけど、おそらく、将来の漠然とした不安を吐露する場所ではないのでは?占いって言うのはこう、差し迫った問題や自己の希望をある程度自己分析した上で、こうしたいと思っているが、運勢としてはどんな感じかというアドバイスを貰いに来る場所なんじゃないか。

漠然とした将来の不安を持ち込まれた先生は、数字から導き出されたデータをもとに「何も心配はない」と元気づけてくれた。そらそうだ、5000円超の価格で買った時間だが、こうなってしまうとアドバイスもクソもなく、人並みに元気づけるしかない。私は漠然とした不安を吐露しただけであり、目前の差し迫った問題や希望を抱えていない。自己分析がなっていないのだ。面接で言うのならば「この業界を志望した理由は?」に、「安定感があると思って……」ぐらいの返答であり、「今日は寒いね」という世間話のトリガーへ、「そうだね」と漠然と返すようなものだ。

「私、どうすればいいでしょうか」って、そんな顔を見合わせて五分程度の、質問をしても短文で「とくにないです……」と答えてくる人間に言えることなんて、よっぽど限られている。これを求められる職能は占い師ではなく、超能力者であったり宗教家であったりするのでは? トリックで見た! 

ぼんやりとした不安を抱え、他人とサシで向かい合う時にしがちな反射的な愛想笑いで口角をひくつかせる私に向かい、先生は「何も心配することはない」と重ねて言った。氏名を何らかの法則で数字化し、生年月日となんとかした数をもとに先生は続ける。

「あなたの人生は16歳まではあんまりよくない、でもそれより後は何も心配することはない。とってもいい 大丈夫」

でも、と話を切って先生は続けた。

「他人の意見を聞きすぎるところがある、自分を持つことが大事」

あとは事故に気を付けろと続けてから、先生はラッキーカラー等々開運に必要な事項を述べ始めた。それを私がボケーっと口を半開きにして聞いていると「メモ取らなくていいの?」とやや威圧されたため、私は慌ててメモを取り始める。そうして先生は、私のラッキーカラーが白と黒だという。私はメモに白黒無常と書いた。ラッキーハンターでしょうかとその時は思ったが、後にホテルのWi-Fiでランダムマッチを試み回線落ちをした。

あとは何か聞きたいことはないかとしきりに言われる。私は一生独り身でしょうかと聞くと、「そんなことはない」と先生は力強く言った。

「子供が二人生まれる。」

マジか。

「女の子ね」

そうなんですか。

「身なりを綺麗にして、他人への関心を持ちなさい。そうすれば何にも心配いらない。」

「化粧は大事、化粧をしなさい。」

ここはぼんやりとした不安を持ち込む場所ではなく、自分が定めた行動指針が天命に背いたものではないかを答え合わせする場所であって、こういうふわふわスフレ自我で来られると、先生も一般論を返すしかないのでは? 一般論の「一般」とは母数が多い集団を指し、母数が多いということは、他人から受け入れられやすいということで、それは一つの「正しさ」でもある。というか、さっきから異性愛を前提に話されているなということをこの辺りで考え始める。同性関係の話を持ち込まれた場合は、そういう風に対処するのだろうか。

 

占いマニュアルに思いをはせ始め、「他にない?」という先生の質問を、二度「ないですねぇ……」で誤魔化したところで、ようやく文鳥が現れた。間仕切りのある竹籠に入った、二羽のふくふくとした白文鳥だった。可愛い。

先生は鳥籠の入り口の前にカードのぎっしり詰まった箱を置くと、鳥籠を開けて、彼らに生米を一粒ずつ食べさせた。非常に可愛い。

やがて先生の指から米粒を食べた間仕切りの右側にいる文鳥は、ちょこんと入り口に降りてくると、カードボックスの上をちょこちょこと跳ねて、三枚程カードを引く。左側の文鳥は米粒を食べたあとちょこんと入り口におり、羽繕いを始めた。ボイコットするものもいるようだが、先生は分け隔てなく米を与えた。可愛い、目の前に来てくれて非常にありがとう。(ここで写真を載せようと思い立ちクラウドを覗いてみるが、なんか威嚇されてるのしかなかった)

文鳥が三枚カードを引き終わると、先生は文鳥にまた米を与えて籠に戻し、文鳥が引いたカードを表にする。先生はその三枚の、かるたの取り札か百人一首かのような絵柄をしたカードを私に見せながら、絵柄を説明した上で、私が気を付けるべき事項を説明する。

「人の話を聞かずに突っ走ることがある」

「助言は程々に聞いた方が良い」

さっきなんか似たような話を聞いたなと思ったが、臨機応変にということだろう。

料金の1500元を支払った私は完全なオケラ、このあと龍山駅から台北駅に戻る道中で手持ちの小銭を使い切り、旅程をあと二日残しながらに、キャッシュレスを擬人化した存在となる。

 

その後、特に文鳥占いとは関係のない経緯から島尾伸三の『香港市民生活見聞』(新潮文庫)を読んだんだが、169-171頁の「秤骨歌」を見たとき、強い既視感を覚えた。

島尾によると「人は生まれながらにして成人した時の骨の重さが決まっていて、この重さがその人の富貴貧賤を決めているというのです」とのことで、後に筆者は自らを例にとり、生年月日と生まれた時刻の計算法を明示する。

この部分を読んでから、あ、そうか、あの時の私は骨の重さを測られていて、だから生まれた時刻を、ああも執拗に聞かれたのだと、ひどく納得しながら、それと知らずに骨を測ることになった、あのやや煤けた占いブースのことを思い出した。

そういえばあの時、例の診断結果を三つ折りにして拝領していた。作業中ずっと机の上に置きっぱなしで、しきりに視界の端にちらついていたが捨てるほどでもなく放置し続けていたピンクの紙がきっとそれだろうと思い込んで私、今さっきそれを、紙束から引っ張り出して開いたんですけど、開いてみてびっくり、台湾の銀行で両替した時のレシートだった。

じゃああの可愛い文鳥の名刺はないか、あれがあるところにきっと一緒にしておいてあるんじゃないか、名刺はどこにやったかと思い立ってみるが、生活とともに荒れ果てた部屋を眺めていたら、その気も萎えた。過去に飼っていた文鳥は季節の変わり目に死んでしまって、今はハムスターが、ガサガサと新聞紙を掘る音がする。

 

というわけで今年の抱負は身辺整理を進め、室内に打ち捨てられている謎の物品を捨てること、そして占い師の前で自我ふわふわスフレな返答をして5000円超をドブに捨てないよう、自己分析をしっかりと行うことです。欲を言えば客引きに対して毅然とした態度で要求を突きつける度胸もほしいが、とにかく私にはぜひ、目的意識と問題意識を持って、自我ふわふわスフレで興味のまま、糸の切れた凧じみた挙動をせず、自分の人生に挑んでほしい。

近況としては修士論文を提出し終えて、同期の一人は締め切り前の焦燥感に苛まれ続け、一人はかろうじて顔だけ知っている分野外の教授への妄執を、憑き物が取れるように落とした。

プレッシャーと年末を楽しく過ごす人間らの生活を見て勝手に苦しんだ経験から、渡すにも知らず知らずのうちに、アイデンティティの一部に論文が付与されてしまっていたようで、自分が何に熱を入れあげていたか、何をするべきなのかを忘れたままわたし、財布も買い換えないままでぼんやりと、あの産み落とした修論が、占いで言われた女の子なんだろうかというようなことを、考えている。思考の足を地につけて生きてくれ。頼む。

 

 

香港市民生活見聞 (新潮文庫)

香港市民生活見聞 (新潮文庫)

  • 作者:島尾 伸三
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1984/12
  • メディア: 文庫
 

 

 

今週のお題「2020年の抱負」

同人小説なんかを書かずにいられる人生が一番幸せ

 

あと三日で論文第二章を仕上げなければいけない(まだ十年分の史料分析が進んでいない)のに、プライベッターにアップされていた激エモ同人小説を読んで泣いている。

そして一つの真理に気が付いた。同人小説なんてものは、書かずにいられるのが一番の幸せだ。

 

私は趣味で同人小説を書いている。趣味と言えば聞こえはいいが、ほぼ宿痾だ。妄想に脳の空き容量を食いつぶされないために、定期的に外へ出してやる作業が必要なのだ。
元々は大手同人絵師になりたかった。しかし絵心がなく絵心を育むための努力に耐えうる精神も持たなかった。なので文章を書き始めた。それが十年近く続いている。

十年近く同人小説を書き続けるとさすがに自分のツボを押さえるのが上手くなってくるので、自分の同人小説を読んで自家発電するのが好きだ。自分の好みが無ければ自分でツボを押してやればいい。それが可能という点で、同人小説を書く技量の身についた人生は幸せだと言うことができる。まれに同人小説を読んで褒めてくれる人間もいる*1

しかし、他人の脳から出て来た激エモ同人小説を読む瞬間の幸福に勝ることはない。自分の頭の外にある概念を直に流し込まれる快感は一種、ヤクにも似ているのでは? ンギモヂイ 文章が上手い他人の激エモ同人小説大好き 一生こういうの読んで生きていたい。

ちょっとした喫茶店めぐりとかショッピングとか映画鑑賞とか旅行とか趣味にしてさ、他人の激エモ同人小説を読んでわたし、美しい涙を流していたい。自分の性癖ツボ押しフェーズが発生する以前に、他人の手による激エモ同人小説と出会いたい。

自分の性癖のツボ押し やっぱ自分がやってるだけあってスゲー的確なんですけど、ツボを押すにあたっての手間が尋常じゃないし、費用対効果としては間違いなく赤字なので。

 

ついては、私の理想の日常は次の通りです。

特に私が関係性についてキャラクター解釈などの自我を持ち始めるよりも前に*2、私の脳を経由しない激エモ同人小説を見つけて、美しい涙を流したい。激エモ同人小説を読みながら、私はオスロコーヒーに行ってパンケーキとか食って、激エモ同人小説を読みながら美しい涙を流し、帰路について家で映画を見ます。

 

現況じゃ喫茶店も映画も無理です。あと三日で論文の第二章を仕上げなければいけない。作業に来た構内で他人の激エモ同人小説を読んで、美しい涙を流している。いいな、一生こういうの読んでいたい。

自分で書かないと理想の文章が誕生しないとか言ってる奴は宇宙人です。自我が生まれる前に理想の激エモ同人小説を見ることが出来る人生が、最も幸福であると神は言っている。単純に、それが激ムズなだけです。

提出締め切り日という枷を負う人間たちのなかにいるので、わたしはこれを往々にして忘れるんですけど、現生人類の間では、小説を趣味で読むことも割と珍しいらしいので、趣味で小説を書くような奴とまみえる確率が、もう宝くじ。それが激エモ同人小説であることなんて、もう天文学的数字です。

きみは流れ星。推し同人作家に幸あれ。神のご加護がありますように。

ついでに私の修士号にも加護をくれ。いやそんな贅沢言わないから せめて第二章をくれ。キャラクター解釈ではなく史料分析の方向性にあたって自我を持ってくれよ 頼む わたしこれで、何を言えるんですか?

 


The Beatles - Help!

*1:ただし、同人小説を書く人間が、特にオタク的コミュニケーションの作法を理解しないままに、「界隈」と呼ばれる類似の原作を共通知識として持つ集団の読解認識能力に過度な期待をかけると、承認欲求がバグり精神衛生が加速度的に悪化する。悪化例は次の通り。「人類は思い出すべきである。金の他に価値あるものが確かに存在することを、無償のものなど何も存在し得ないことを。 - メーデー!」「界隈での交流/zero零細文字書きが一時の気の迷いと「同人誌さえ頒布すれば自分だって」というような思い込みでサークル参加するぐらいだったらその分貯金して南米にいった方がいい - メーデー!」「カップリング解釈という名の妄言を他者と共有したいという願望からサークル参加を始めるもコミュ力の破綻ぶりからブロック数を増やし見事ムラハチ者となった同人失格フジョシのレゾンデートル - メーデー!」など。

*2:キャラクター解釈という名の自我を持ち始めると性癖のツボが自分にしか押せない場所にうまれてしまうため。

備忘:財布を買うこと

 

わたしのコミュ力は地なのでsocial networking serviceを介してsocial networkを築けないし、逆にSNSを介してヤバな人柄が知れてしまうことで、思想に付随する創作物をわりと遠巻きにされるタイプだ*1

趣味を介して他人と親交を深められない。これまでの人生で所属したいかなる組織からつまはじきにされた経験があるわけでもなく、どちらかと言えば、うまくやっているとまではいかずとも、程々にお目こぼしをもらっている方だ。義務を介して人と役割分担をしたり、親交を深めたりすることは出来るのだ。

これが趣味になるとマジで、ビックリする程荒れ地の腐女。話しかけた所で罪悪感の薄いフォロワーは、片手で数えられる。創作活動という趣味に手を染めて五年では済まない年数を過ごしているが、その内過去に同じカップリングを嗜んでいた経歴を持つ人間は二人だ。

サークル活動とか参加すれば同好の誰かと一緒にサークル参加❤とか合同サークル❤とかあるんじゃないかと思っているそこのお前、サークル参加って実は一人でも出来るし、義務を介してつながったオタクではない他人に売り子を頼むこともできるし、売り子が隣のサークルと仲良くなってるところにわたしがサークルに戻ってきちゃって、水を打ったように周囲が静まり返ることだってあります。

趣味を介して他者と親交を深めるのには才能が必要、他人と会話で盛り上がるには才能が必要、オフ会でオタク同士の会話を盛り上げるには才能が必要ってことを証明するために、誰か会ってくれる他人いないかなとか思ってたらそういや以前、元フォロワーと、絶版になってるジャンル本を受け渡すついでに、一緒にオリエント工業ラブドールの展示に行ったことがある。あれはオフ会と言えたんじゃないか!? 結局一ミリもジャンルの話をせず、最終的にあんたまだ若いんだから人生頑張れよみたいなアドバイスをいただく、虚無の人生相談になってた。

〇〇最高ですよね!っていう話で盛り上がるには、才能と成功経験が必要です。

こういうブログ記事を量産していると、より人の寄り付かない孤の立が生まれることも、わかっちゃいるんですけど、ブログ開設前だって似たようなものだったことを思い出すと、歯止めもなくなる。

わたしも、もし己の性質を選べるのならば、ぜひともこういうエントリーを作らず、フォロワー(概念的存在)と原稿作業中に通話とかしたいし、原稿合宿とか原稿監視とかしたいし、原稿の進捗で他人に褒められたいです。今生まないといけないのは論文の進捗。生み出すと生み出した分だけ審査会で凌遅刑を執行いただくためのぜい肉が増える。でも読んでいただけるんですよね!? そのうえで感想をいただけるんですか!? すごい!! 論文ってすごい!!*2 SNSやめろ!!

 

情緒と進捗に続いて、最近財布が壊れた。

わたし一時期メルカリにアホのはまり方をして、私の手の届くところにあるもの全てに値段をつけて売り飛ばそうとしていたんですけど、その時期に購入した、二つ折りの綺麗目デザイン革財布。お値段なんと500円だった。ワンコインで買えた、その財布が壊れた。

地味カワイイOLを志向して購入した財布だったんですけど、地味カワイイの境地を超越した小銭の詰め込み方をしたのが、多分よくなかった。前々からチャックにイカレの気配を臭わせてはいたんですが、先日、ついにそのチャックがバカになった。

購入当初から小銭の間仕切りだと画像で見て思い込んでいた部分が、実のところちょっとした装飾品でしかなくて、シームレスな小銭スペースのいたるところから一円玉がコンニチワしてたんですけど、ついにそのチャックも締まらなくなったので、ここ数日、普段旅行用に使っている、アディダスマジックテープの布財布で凌いでいる。

ところで週末、また義務を介して親交を深めた人間たちとの、ちょっとした同窓会みたいな場に行ったんですけど、お勘定の場でバリバリッって元気よく開封した私のアディダス、めちゃめちゃ注目を集めてしまった。

アディダス、最高です。旅行でいつもお世話になっている。スリムなボディ、目を引く蛍光ブルー、でも会社にもそろそろ慣れてきて最近どう~?みたいな会話をしているところで、バリバリィッってやったのは、単純に私の、こう、TPOの選択ミスだったと思う。バリッってしたついでに、旅行中使い切らなかったハンガリーフォリント転がってたし。1フォリントは日本円にして0.36円です。3ユーロで1000フォリント7000フォリントぐらいあれば、フォアグラステーキが食べられます。

 

というわけでタイトルです。これまでもこれからも、大概のことを「提出締め切り終えたらやる」と擲ってしまっているんですが、さすがに財布は不便、いや、アディダスマジックテープ布財布が悪いわけじゃ決してないんですし、キャッシュレス化の進展するこの時代に、財布がヤバいなんてのは、些細な問題であるべきなんですけど、どうにもアナログ人間、結構財布を人前に出すこと、まだまだ意外にありますし、アディダスのマジックテープ、ソフィーが持っている分には、まだ可愛げがあるかもしれませんけど、少なくとも、荒れ地の腐女が所持を許される逸品ではないので、早急に購入してくれ、おさいふどこかたのむ。

 

 

ハウルの動く城1  魔法使いハウルと火の悪魔 (ハウルの動く城 1)

ハウルの動く城1 魔法使いハウルと火の悪魔 (ハウルの動く城 1)

 

 

*1:まぎれもなく、ここには被害妄想が入っている。そもそも消費した二次創作物に感想を残す行動が貴重な社会だ。まして「趣味で」小説を読む人間はオタクでもそんなにいない(体感と偏見)。インターネットで見られる感想であるとかオタク同士の創作物の宣伝のし合いは、いうなれば砂漠で狼煙を上げているから目立って見えるだけだ。しかし世は大SNS時代、狼煙がそこら中から上がり霧の都のようになっている状況下で、火種もない状況の原因を「これはそもそも読まれないもの」と考えるか、「これは私の人柄ゆえに遠巻きにされるだけであって、自分が最高と思う自分の創作物は最高なのである」という自尊をとるかはどっちみち茨、そんなこと考える前にコミュを磨いて囲みのフォロワーを作るか、そうでもなきゃそんなことを考えるべきではない

*2:支払った学費への対価だ

ヴィエリチカ岩塩坑を信じろ

 

フジョシというかカップリングオタクたちが徒党を組んで見る集団幻覚に乗り切れず、コミュニケーションもロクに取れないまま気付いたらブロ解でフォローを外されていることがままある私でも、観光地を信じることはできます。観光地は裏切らない。観光地を信じろ。

 

2019年9月、ヴィエリチカ岩塩坑に行った。

 

witam-pl.com

 

そもそもがどこかから降って湧いたような東欧旅行の旅程に、強硬にクラクフ(ポーランド)をぶち込んだのは、アウシュヴィッツ強制収容所博物館目当てだった。こちらは折角だしついでに行こうというテンション。つまりあんまり下調べをしていないのだ。わたし、これまでの多くのエントリーで自分のこの下調べの薄さを深く反省しているんですけど、こいつさては学ばないな?

 

現地入り前(だいたい七月とか八月とか)

同行者の社畜ぶりをいいことに、私は独断でヴィエリチカ岩塩坑のツアーに申し込んだ。何せ世界遺産登録第一号の内の一つ、愛知万博ポーランド館のメインテーマである。そのヴィエリチカに、人生でここまで接近することはもうないだろう。行きます(即決)。

ヴィエリチカ岩塩坑の観光ルートには「ツーリストルート」と「マイナーズルート」がある。ツーリストルートでは普通に坑道を観光するらしい。一方のマイナーズルートでは、なんか、鉱夫の格好をして、実際に三時間塩を掘り出していくらしく、終了の暁には、修了証ももらえるらしい。

修了と名の付くものは何でもかんでも喉から手が出る程欲しい。なので暫く悩んだのだが、私は地下のキンガ聖堂とそこにある塩製シャンデリアを確実に見たかったので、ツーリストルート英語ガイドツアーを予約した。マイナーズルートで聖堂を見られるかどうかはいまだによくわからない。誰か鉱夫修了した人います? 聖堂がルートに組み込まれているかどうか教えて欲しい。 

申し込み終了後、同行者には後から「世界遺産第一号の一つ」「地下の空気は肺に良い」などと雑な宣伝をした。オタクで私の布教に乗ってくれる人間は今のところ実績ゼロなんですけど、同行者は簡単に乗ってくれた。持つべきものは尻の軽い同行者だ。

飛行機に乗る前日にバウチャーを印刷し、手荷物にいれた。

 

現地(旅程開始~ヴィエリチカ前日)

日本から出国しまず台北桃園国際空港、そしてバンコクスワンナプーム国際空港で深夜二時の乗り換えを済ませた後、ウィーン国際空港からクラクフ・バリツェ国際空港に到達した我々は限界だった。

私や同行者のみに限らず、ウィーン到着時点で、乗客の多数を占めるアジア人たちは一様に異臭を放っていた。何故? 夏の亜熱帯から風呂にも入らず乗り継いできたからでしょうか?

 

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ウィーン国際空港出発ターミナル 私のベッドよりデカイソファ

ウィーン国際空港時点ででかいソファに寝そべり、ひたすら乗り継ぎの時間を待った。

これが数年前ならお互いにはしゃいでいるので、こう、多少無茶して市内に出て観光したりもしたと思うんですけど、端的に限界。往路でありながらテンションが復路。なんか自分、臭いし。

 

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クラクフ・バリツェ空港 鄙びている

 

ここから以降の道行きをダイジェストするんですが、「クラクフ・バリツェ空港から市内までの移動でバスの運賃を払いたくても払えない」「込み合う車両内でなんかすげぇ絡んできたおっさんが口を止めたと思うと目の前で飲酒スタート」「飲酒乗車のおっさんが目の前に立ってる人体のデカイ尻に向かって腰を振り始める」「Booking.com経由で借りたアパートメントの電子ロックが開かない」「旧市街を女性水着で颯爽と歩くおっさん」等々、個別イベントやスチルが盛りだくさんの道行きが発生してしまったんですが、ここから得られる教訓は以下の通りです。

「2020年に向けてやたら工事してるっぽいので、クラクフの電車は結構少ない 運が悪いと電車がない時間がある」

「上をカバーするためにやたらバスの本数が増えている。鉄道の時刻表にこの代行バスの時刻が記載されていることがある」(これを鉄道が出る時刻だと思い込み私は空港から市内に行くホーム上で鉄道のチケットを購入した。その後に必要なのがバスのチケットであることに気付く。運賃はドブに捨てた)

クラクフのバスチケットはバス停或いはバス内の自販機で買えるが、バス内の自販機は非接触型決済が搭載されたクレジットカード、或いは硬貨しか使えない。バスの運転手からは購入不可」

「空港から市内のバスはクソ混む 道もクソ混む あとすっげぇ揺れるので可能であれば電車で移動した方がいい」

Wi-Fiは神、今回これがなかったらマジでアパートの開錠コードがわからず詰んでいた」

以上です。おっさんはマップに点在するオブジェクトとして扱います。具体的な対策はないです。

 

こういうことをしていると、岩塩坑直前日まで現地交通について何一つ知らぬままに生きることになる。

前述のとおりあんまり電車がアテにならない世界線のため、ヴィエリチカへもバス移動をすることだけは決めていた。

しかし正直、この時点でバスが相当な負の記憶になっている。しかしすでにツアー予約で2400円ぐらいの支払いは済んでいるし、スキップするには惜しい。二度とあのバスには乗らないと神に誓ったと呻きながらも、義務感から検索を続ける。

 

witam-pl.com


中央駅に近いところに宿をとっていたため、上記のサイトを参照しつつ市バス304番から向かうことにした。

www.mazourkairis.com

 

しかしネットサーフィンをしている内に、「Wieliczka Kopalnia Soliというバス停がない」という話を見つけてしまう。落ち着いて見れば情報は2015年、上述の2018年版の方が年が新しいし、順当に考えればそちらを信用すべきなんですけど、万一バスに乗ってから降り口がわからんという事案が発生することを恐れ、念を入れて304番のバスについて調べ始める。

 

www.krakowcard.com



ちなみに、クラクフカードについてはちょっと調べてみたら「元が取れない」という意見が多かったので使わなかった&我々は滞在が3.5日間でアウシュヴィッツヴィエリチカに行っているので、旧市街の博物館であるとか何であるとかの観光施設が開いている内に回れないし、確かに元は取れなかっただろう という感想があります。

 

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[典拠元]http://www.krakowcard.com/how-to-get-to-wieliczka-salt-mine


これがクラクフカードページに載っている地図なんですけど、縮尺の感覚がよくわからない。あと市バス304番、二つ停留所がありますけどどっちがWieliczka Kopalnia Soliなんだ?

 

文明人らしくここでグーグルマップ見ろよという話なんですけど、宿のWi-Fiが残念なことにクソ弱な上*1、この時点で不注意により持ち歩きWi-Fiの容量を使い切ってしまっていた。

しかし仮にウェブ環境が満足に整っていたとしても、グーグルマップから正しいバス停を見出すことは困難だっただろう。


そもそも公式サイトに何か書いてないのかと思ったが、グーグルマップへのリンクがあるのみだった。 私はスマホをスリープモードに移行した。

 


当日

バス停の場所を確認しに行くと、バスを待つまでもなく二台バスがたむろしていた。

時刻表通りに市バスが動いているのであれば、乗りたいと目している時間まで二時間強あったが、この際ヴィエリチカに向かってしまおう、もうどうにでもな~れという方向で話がまとまってしまう。

バス停にはチケットの自販機がなかった。バス内の自動販売機を使うにもシステムがよくわからないため、ダメ元で小銭を握りしめ、バスの運転手に向かって「お前からチケットを買わせてくれ」と懇願するも、運転手は困惑顔でバス内の自販機を指さした。

そうしている内に、観光客の気配を察したらしい乗客の老婆に導かれ、自販機でチケットを購入。何かすごい話しかけてくれるが、怒涛の推定ポーランド語を前に何を言っているのかわからない。ヴィエリチカ、ヴィエリチカサル*2 ……などとモゴモゴしていると、状況を完全に理解した表情の老婆が、実に慣れた手つきでチケットを購入してくれた。アリガト、アリガト……しかし空港で地球の歩き方をにらみながら暗記を試みた、ポーランド語でのアリガトウを思い出せない*3。センキュ、センキュ……老婆センキュ……

ちなみにアウシュヴィッツ行きのバス(ライコニック)は、運転手からチケットを購入できた。自販機と戦う必要があるのは市バスのみのようだ。

 

バスに乗車すると、朝から異様にテンションの低い同行者はさっそく眠りについた。クラクフ入りとともに生理入りを迎えた彼女は、一般に最も重いといわれる二日目にアウシュヴィッツ強制収容所博物館がぶち当たってしまい、強制収容所博物館ツアー後半、前半に増して延々と屋外、九月の直射日光のなかを徒歩で行くビルケナウの道行きでは、さながら巡礼の面持ちで足を引きずっていた。その日は三日目だった。

その内に乗客が徐々に増え、バスが動き出した。果たして本当にこのバスはヴィエリチカに向かうのだろうか。バス停の経路表示にはWieliczka Kopalnia Soliがあったので、とりあえずその辺まではいけるだろう。しかしWieliczka Kopalnia Soliのバス停は、あの地図(前述)のどっちの304なのか。停留所の電光表示が見えない。このバスの中に電光掲示板はないのか? ではリスニングしかない。英語のアナウンスに期待しない方がいいだろう。果たして私はポーランド語を聞き取ることができるのか。不安な気持ちを残したまま、中央駅はどんどん遠ざかっていく。クラクフ市バスは何故こうも揺れるのか? まどろむ同行者はヘドバンを繰り返している。

私は眠気を振り払うようにあくびを噛み殺しながら、窓の外を見つめる。市内から落書きの目立つ郊外に出て、段々と、緑が目立ち始める。アクリル板で区切られたようなバス停に、金槌を並べたスカイブルーの紋章が描かれるようになる。ヴィエリチカに入ったのだ。市の紋章を覚えていたことに、これほど感謝したことはない。

 

などと延々不安な道中の状況を書き連ねたところで、結果としては、どうということはなかった。流石世界遺産登録第一号、ポーランドの誇る屈指の観光地、Wieliczka Kopalnia Soliで、実に観光客らしい出で立ちないし顔立ちの人間は皆下り始めるし、それに従って下りれば目の前に坂道、道沿いに塩に関する土産や特に関係ない土産を売りさばくちょっとした土産物屋。ささやかな人波に身を任せて歩いていくと、そこにはWieliczka Salt Mineの入り口があった 

あった!!!!!!!!!!!!!!!!! なんだあのわけわかんない地図!!!!!!!!!! 縮尺そんなに広くなかった!!!!!!!!!! 嗚呼!!!!!!!!!!!! 汝観光地を信じよ!!!!!!!!!!

 

というわけで、この通りツーリストルートの入り口はWieliczka Kopalnia Soli が最寄りで間違いないと思う(2019年9月時点)。

マイナーズルートの場合はもうすこし市内寄りだと思われる。今グーグルマップで見た感じだと、Wieliczka Mediatekaとかがそれっぽいが、まさか上述の文章を読んだ上で、ここに書いてある不確かな情報を、裏取りもなく参照しようと思う猛者はいないと思う。 いちゃだめ このブログの文章は無責任なので ちゃんと自分で調べて。

 

入り口でバウチャーをチケットと交換する。この時点でツアー開始まで二時間近くあり、受付の人に勧められるがままTężnia Solankowaに行く。

なんか木組みの、ビーバーとかが好きそうなタワーだった。岩塩坑からくみ出した水をここで濾過してるんだかしてないんだかただ噴水にしているんだか 肺にいいらしいが一行総勢二名で呼吸器に不安のある者はいなかった。

塩分を含んだ霧は不純物があるからか純正(?)の霧スプレーよりもなんか粘っこい。地面から出ている噴水が虹を作っており、女児ふたりは疲弊の中でもそれを見たときばかりはテンションがやや上がった。

 

昼食は岩塩坑入り口に近い雰囲気のいいレストランに入ることにした。

入り口と机を仕切る間仕切りに、おそらくイタリアの街路・街並みをイメージした壁紙が張り付けてあった。背の高い花が背の高いガラスの花瓶に生けられ、テーブルに置かれたろうそく型をしたオーナメントが、電気の力でちらついていた。

ここで食欲の失せている同行者はチェリー何たらという名前のなんかおいしそうなチョコレートケーキを頼み、食べ物で珍奇なものを頼んではハズレを引くことの多い私は、ヴィエリチカバーガーを頼んだ。ネーミングに負けたのだ。パテの代わりにベーコンを挟んだおいしいバーガーだった。フレッシュネスバーガーで売ってそうな感じだ。あれのどこがヴィエリチカだったのかいまだによくわかっていない。 使ってる塩か?

 

15分前ぐらいから列に並び、岩塩坑内部に向かっていく。

待ち合わせ場所からさらに地下へ下るにあたって、また謎の音声ガイドが配布されるが、アウシュヴィッツ強制収容所博物館のものよりも操作は易しく、ツアー開始前に「チャンネルを〇〇〇番に合わせろ」という指示がされる。それに合わせればあとはガイドがマイクに話しかける音声が耳元で再生される仕組みだ。

数字を聞き取るのが鬼門の私は、待合場所の長椅子で隣に座っていた老婆の手元を覗き見ようとして失敗、私の不審な挙動に気付いた老婆は寛容に微笑み、私にディスプレイを見せてくれた。サンキュ……老婆サンキュ……(二回目)

 

一事が万事この調子なので英語のガイドお前、本当に聞き取れてるのか? と皆さん疑問にお思いだと思いますが、実のところ、何となく雰囲気で聞き取っているところが9割。集中力が切れると普通に何を言っているのかわからないがうなずくかというフェーズが発生する。

しかしキンガ聖堂のような観光の目玉は目に見えるし、壁についた手をなめるとなんかしょっぱいので、岩塩坑感は十分味わえる。

岩塩坑中では他にも白雪姫の小人をモデルに掘りましたね? という新し目のアトラクションがあったり、岩塩でできた鍾乳石(塩では?)のようなものがあったり、ツアー参加者から有志を募って、当時坑夫らが切り出した岩塩を上に運ぶために使っていた大がかりな機械を動かす作業を模したりもする。

見るものも多くツアーは結構なスピード感があり、道行きには結構な高低差がある上足元は滑りやすくなっている。のろのろと足元に気を配りながらうかうかと写真を撮ると、後ろに行列ができていたりするし、そもそも写真を撮ろうにも内部結構暗いし、何か、手持ちのエクスペリアのせいなのか私の腕が悪いのか、とにかくブレるし暗いし(二度目)何がなんだかよくわからない写真が撮れてしまうことが多い。何よりとにかくよく歩く。前日も良く歩いた。その内私はカメラを起動するのもおっくうになり、壁の岩塩が描く模様をジッと見つめ始めた。マイナーズコースにうっかり応募なんかしていたら、二人そろってこの塩のシミになっていたことだろう。私は自分の賢明な判断に感謝した。

そうやって過去の自分の判断に感謝している過去の自分へ、

ツアーの最後に立ち寄るホールみたいなところに売店があり、そこで10ズロチ前後で塩のチョコレートが買えますが、最終的な出口、地上のチョコレートの方が包装がリッパで同じ値段なので、チョコレートを買うならそこで買った方がいいです。

私は地下で買ってしまい帰宅してみたら割れていたので、土産にするのをあきらめその場で食べました。中に予想外にキャラメルが入っており胸焼けしました。

 

というわけで、ヴィエリチカ岩塩坑だったんですけど、全行程の中で一番テンションが上がったのは、坑道から地上までの帰路だった。

ツアーは地下で解散、レストランと映画館があるぞと言われるも、すでに十二分に疲弊していたため、一心不乱に我々は地上を目指していた。岩塩の壁に掘られた世界遺産マークの写真撮影もそこそこに、いそいそとEXITの文字に従い歩いていく軍団に加わる。

しかしこの時点で、どうにも上に上がる気配がない。扉が開かれるとそこから先に新たな暗がり、岩塩坑が広がっている。

「ここは本当に出口なのか?」

お互いに首を傾ぎながら歩いていく。先導を切るおじさんは先ほどの英語話者ではなく、ここから先はポーランド語のみのご案内になっていた。そういえばさっきの英語話者、ここから新たなツアーもあるとさっき言っていた。誤って別のツアーに編入されてしまったか? しかしEXITと書いてあるし、え、何か下ってね? 

暗がりを歩くこと五分、我々はエレベーターに到達していた。やった! これで地上に出るんだ! もう階段を上がらなくていい! うきうき歓喜しながらエレベーターの上昇を楽しみにする我々、 下るエレベーター は!? どこにいくというんだよここから は?????

五秒足らずで到達したエレベーター到着階には、相変わらず岩塩坑の景観が広がっている。ひょっとして地獄に来てしまった? ここから出られずに死ぬのか 日の光、 日の光が見たい……何が起こるかわからないという恐怖をごまかすように口々に呟きながら、集団に飲み込まれたまま歩いていくと、トロッコがあった。 トロッコというか、より現代的な乗り物 ディズニーランドにある、西部鉄道を模したアトラクションみたいなやつだ。

我々は歓喜した 

そうして動いている姿をなんとか収めようと、こうめちゃめちゃに動画を撮り始めるが、前に座ったカップルの片割れの十円ハゲが執拗に画面に映りこむ。

全員のシートベルト装着確認、ほどなくして動き出すトロッコ、寄り添うカップルと自撮り、画面に執拗に映り込む十円ハゲ、トロッコは前に進む、時折ささやかに上がり、時折何故か下り、切り替えもなく、行く手に作業員も現れず……

やがて十円ハゲを映さぬようトロッコが動く動画を撮ろうとする努力を我々が放棄し、ぼんやりと周囲を見たころに、トロッコは止まった。

そこからさらに、エレベーターで上がったような気がする。行きついた先は、岩塩坑の入り口とは異なる場所だった。おそらくマイナーズルートの入り口に近いところだろうか……? さらなる迷子を覚悟したが、少し辺りを歩いてみれば流石に標識があり、それを頼りにツーリストルートの入り口に到達、そこから復路のクラクフ中央駅へ向かうバス停を探したが、そんなに労した記憶もない。

ですので、汝観光地を信じよ。あとは世界遺産というネームバリューに伴う英語表記の豊富さ、保養地ゆえの道行く人々の人慣れ具合、観光客っぽい素振りをする人間の波、そして寛大かつ親切な老婆を信じよ。

信じたところで救われるかはこう、運次第なところは否めませんが。

 

 

ワラ人形(藁人形)

ワラ人形(藁人形)

 

 

*1:調子がいい時を見計らってもツイッターに画像を上げるのに三分はかかる程度

*2:現地のスーパーで塩を探し求めて気付いたのだが、「ソルト」はここでは通じない ソルと言ってみたところ、「ソリ?」と聞き返された。なお私の発音がクソカスの可能性は大いにある

*3: dziękuję(ジェンクーイェン)