メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

譲り受けたハムスターに修士号と名付けることにした。

 

小動物はすぐ死ぬ。少なくとも私はそのように考えているし、漆原教授もそう言っている。このカシオミニを賭けてもいい。

 

私がハムスターを飼育していたのは、概ね十年かそこら前のことだ。当時の私はハムスター倶楽部という漫画雑誌を熱心に購読しており(それが私の人生最初で最後(現時点)の定期購読だった)、一時期一世を風靡していたハムスターブームの御他聞に漏れず、ハムスターをやたらに飼育しては飼い殺していた。

不適切な知識と、自己と他者を同一視した「思いやり」の視点から繰り出される奇怪な行動(私が好きなものは相手も好きに違いないと考えるアレ)をする小学生による飼育なんてものは、殆ど拷問のような、より残酷なやり方で殺しているようなものだ。悪意に満ちた状況で悪意だけが無く、過酷な状況下に飼育されていた者どもの内、気温差に耐え切れず死んだものが何匹いたかと思う。時折、全く世話をしていない水槽やゲージを覗かねばならないと思う悪夢を見る、かつて愛玩した動物は、みな例外なく、死骸に成り果てた姿で枕元に立つ。

生体の飼育について、自分の飼育が適切であると判断できる基準が無い。飼育の免許がある訳でもなければ、同じような動物を飼っている人間がすぐ側にいる訳でもない。こと小動物となると、Googleに集積した集合知でも、サイトによって書いていることが正反対であったりするし、飼育書もモノによって、言い分が食い違うことが少なくはない。

 

この手のものの飼育に関しては兎角、最善であったかはともかく「手を尽くした」と言う他無い。何せ、すぐ死ぬのだ。死んだあとに「私にできることは全てした」と言って、空っぽのケージを片付ける気力を出すことしかできない。自己満足に過ぎないのだ。死者を相手取る以上、人間の葬儀すら、家族制度の解体されつつある今となっては、遺族の自己満足の側面が強く出始めているだろうに、ペットの死に伴うプロセスなんてものは、それ以上の自己満足でしかなく、虹の橋を渡ってその向こうに「幸せに」暮らしているというのがちゃんちゃらおかしいのだ。そこで悼まれているのは、失われた愛玩動物そのものを通して見た、愛玩をはく奪された自己の心だ。欺瞞だ。しかし、そうする他どうしようもない。犬猫であればもう少し意思疎通のしようもあるのだろうが、なんてったってネズミだ。ラットとかは名前を覚えて芸とかもするらしいんですけど、ハムスター見てみ? 絶対そういう脳はない。聞いたことも無いし。

 

顔で笑って心で泣いて、目の前の人間が何を考えているかさっぱりわからないのに、どうして言葉を持たない、自分ではない存在を管理できると思うのだろうか? 自分ですらろくすっぽ管理できていないのに、他者の命をマネージする。愛玩動物って何でしょう。飼い主に求婚するインコとか、(愛玩動物ではないが)飼育員に求婚するペンギンとか、そういった物言わぬものどもの人間に対する求愛、心温まるエピとして消費される風潮ありますけど、同族から隔離された地にて、それらしいものに熱心に求愛する気持ち、お前は考えたことあんのか? ある日突然地球から五光年も離れた土地に連れていかれて、何を喋っているかわからない不定形の存在を前に、わからないなりに必死に対応する己の姿を、心温まる可愛いニンゲンちゃんとして消費する不定形の知的生命体……

ということを延々考えるのが趣味なんですけど、ツイッターを介して生活を覗き見るようになった知人の知人が、ウッカリ手違いで生まれたハムスターの里親を探している旨のツイートを発見して、気付いたら私は、小動物飼育の為のケージを購入していた。

 

オイお前どうした。お前は完全なる他者を管理できるのか。二年後の働き口すら定かではないお前に、他者をマネージできるのか、しかも、風が吹いたぐらいのショックで死ぬような小動物を。でもケージ、買っちゃったし、自分の中にある倫理問題を片付けるより早く、ハムスターを引き取る手はずが整ってしまって、頭と身体と予定と体面(既に引き取り手とのコンタクトを済ませ、家人にもその旨を伝え承諾を得てしまった後だった)がこのまま分離独立しそう!というところで、私の脳内には、先日舞台を観劇したことを受け、舞台の下地であることを聞き、そのままストーリーを視聴した斜陽イベ(文豪とアルケミスト)の記憶が過った。

 

よく聞け、お前の持つ不安は最もだ
今納得しろっていうつもりはない、俺たちにも答えられないからな
これから一緒に考える時間はあるはずだ

 

(「奇襲作戦「斜陽」ヲ浄化セヨ・六」『文豪とアルケミスト(文アル攻略 Wiki)』(最終確認日2019年3月16日)より)

 

かくして佐藤春夫(文豪とアルケミスト)の後押し(勝手に押されるな)を受けて、私は知人よりハムスターを譲り受けることにしたんですが、飼育するハムスターに付ける名について、何が良いかとか、何と名付けたいとか、そういったことについて、皆目見当もつかなかった。

このままだと、「ハムちゃん」という種族名で呼び続けるか、「かわいい」という概念名で呼び続けるかになる。ヒメキヌゲネズミちゃん略して「キヌちゃん」とかも考えてたんですけど、それって、ホモサピエンス略して「ホモちゃん」と同じだよなと思うとなんかこう、ネーミングセンスが地獄。

経緯を知っていた友人は、最後の後押しになった台詞を言ったゲームの文豪からもらえば良いと言ってくれましたが、それにはちょっと躊躇いがあった。佐藤先生にあやかると、自分の書類上の氏名と急接近してしまうからだ。

そうこうしながら、最新版のハムスターの飼育情報をインターネットで仕入れ、アップデートしていくにつれ、たかが五年十年で人間存在の本質が変わらないように、ハムスターの脆弱さもどうやら変わらないらしいことを知った。幼少期、私の身の回りに居た人間によって飼育されていたハムスターで、まっとうに天寿を迎えたものが、どれだけいただろうか。温度差で、掃除機に吸い込まれた、扉に挟んじゃった、ふんじゃった、猫が。

しかもそのハムスターの受け渡しの場所が、飼育の拠点となる自宅から徒歩三十分、地下鉄三十分の所なんですけど、ヤフー知恵袋には「Q.持って帰ってる途中でハムスターが死にました」「A.ショック死する生き物ですから、気を遣ってあげてください(大意)」

何かと天寿を全うさせることの難しさを取って、太宰治(文豪とアルケミスト)の方に因むかと思ったんですけど、縁起でもないし、はるおは兎も角、だざいはマジで由来がバレバレ、言い逃れ様がない。

これでもし私一人暮らしだったら、家で太宰を飼っていようが私一人の勝手なんですが、この自宅には自分以外のホモサピが居ますので、それはそれで問題。いい年の娘が自室で太宰を飼い始めるの、父母としては懸案事項では? そうでなくとも、無垢なヒメキヌゲネズミを、強火の業を背負った名で縛るな。

当座私はいずれ来るハムスターの名前を(未定)ちゃんとすることにした。

 

いくつかの説明会といくつかのウェブエントリー、そしてES提出を経て、ハムスターの受け渡し日がやって来た。

ケースの中で運ばれてきた九匹のハムスターを前に、私側の希望としては「電車移動に耐えられる図太そうな奴」だった。しかし注文をしている段階で、注文をしている他でもない私が、(これはもうだめだろう)と思っていた。ここまでもはるばる地下鉄にていらした、皆で団子になって固まり、暖を取っているハムスターたち。私はこれから、一匹を選出して、引き離し、東京砂漠へと連れ去るのである。かそけきハムスターにはきっと、耐えられないに違いない。「可愛がってあげて下さいね」という優しい言葉が、私の心をいたく抉った。小動物はかそけき夢のようなものである。

かくして、はんだにて空気穴をあけて下さった百均のプラスチックケースに入り、私と死出の旅を共にすることになったハムスターは、ヴィドフランスの青い袋の中で、手持ちゆたんぽと共に持ち歩かれることとなった。

自転車のタイヤが回る音を聞くにつけ(今の音がストレスとなってハムスターは死んだ)と思い、強い風に吹かれればこれにはハムスターも耐えられないだろうと思い、電車の音や人の雑踏を抜ける度、これを苦にハムスターは死んだと思った。矢鱈と咳をする隣席の人間から己を庇うように背を丸めて、地下鉄の電車内で膝の上に乗せたヴィドフランスの袋の中にあるハムスターケースをそっと覗くと、中のハムスターはケージの隅を熱心に掘っていた。それが二駅行った所で掘るのを止め、ケースの隅に丸まった。みっしりと絹のようなすべらかな毛が生えた泥団子のような大きさのそれが、時折耳を動かしながらふわふわとしていた。私が(おや死んでいるのか)と思いケースを少し持ち上げて内側を覗き込むと、揺れに伴いハムスターは顔を上げて鼻を動かしたかと思うと、念入りに丸まりなおし、円らと言うよりかビーズのように見え不安を誘う形の目を、うっすらと閉じるのが見えた。


ウッソ

ハムスターって、地下鉄で寝るの?

もっとか弱いもんだと思ってたんですけど

ウッソ

 

最寄り駅から地上に出て夜道を歩く最中、矢張りここでハムスターは地下鉄と外気の温度差に耐えられず死ぬものだと私は思ったんですけど、袋越しにケースを支える手の平に、ハムスターが熱心に隅を掘る細やかな振動が続いていた。

全く死にそうにない。

体長こそささやかながら生命に満ちたそのハムスターを連れてこのまま、三十分と言わず一時間二時間と歩いて行けるような心地になった。

そして私はこの、知人から譲り受けたハムスターに、修士号と名付けることにした。

私の知る小動物にしては群を抜いて図太く、地下鉄で丸まって寝るようなその態度を、未だ適切な史料や方向性すら見えず、残り一年を切り産まれる気配すら見えない修士論文に見習ってほしいと思ったからだ。だいたい、他人に書いて貰おうという姿勢がおかしい。自分で自分を見つめなおして、自己分析シートにして提出してほしい。と、このように未だこの世に生み出してすらいないものに怯え、怒り、狂い、そして責任を転嫁しようとする私が相当なんですけど、行き場も無ければ卒業も不明瞭、修士号の明日はどっちだ!?

しかしながら、自宅には私以外にこのハムスターを呼ぶ人間が居るので、修士号から字を取って俗名「修」にしよう。シュウちゃんでもオサムちゃんでもオサミちゃんでも、あれ、なんだかダザイの霊圧が消えていないんじゃないかこれ。

 

後に帰宅し家人に迎えられた修士号はケージに移されると、どこかしこもガラス張りで、人間の眼差しから逃れようのないケージに恐れを成したか、ジャンガリアンののぞいて安心ハウスの中に隠れたが、その内にケージ内を闊歩し、回し車の上に座り、給水機の飲み口から零れる水滴で顔を洗い、トイレの砂を検分し、回し車の下を通ってから、餌箱を漁り、小屋に戻った。

私のこれまでに知るハムスターは、人間の気配を感じると一日二日は箱から出てこないのがザラだった。果たしてかつての小学生が過去に飼い殺しにした小動物はハムスターではなかったのか、或いは、今回譲り受けて来たものがひょっとして、ハムスターの皮を被ったショゴスとか何かなのか。といったところで、いっちょ前に薄い毛の生えた四本の指を一生懸命に広げながら、餌箱を熱心に漁っているハムスターに今、ショゴちゃんという名前を与えることをふと思いついたんですが、修士号とどっちがいいですかね。