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闇夜にうごめくBLUE SAPPHIRE


劇場版『名探偵コナン 紺青の拳(フィスト)』特報2【2019年4月12日(金)公開】

 

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これはチップをうず高く盛って自ら狭くした入り口に体をねじ込むうちのブルーサファイア

 

※以下、現在劇場公開中の映画作品『名探偵コナン 紺青の拳』ストーリー部分のネタバレがあります。

 

 
わたし、劇場版名探偵コナンゼロの執行人を視た辺りから特に、劇場版名探偵コナンを「男女の区別」や「ジェンダー」という側面から見ていくのが趣味なんですが、今回の映画、序盤の台詞にあるように、「ちょっとトリッキー」だった。性差の攪乱!

あくまで趣味ですし、名探偵コナンについては一時単行本を流し見したり、劇場版名探偵コナンのいくつかを流し見したり程度の人間なので、以下の文章、ガード下の居酒屋で繰り出される俺の昔話エピ程度の信憑性ですし、これを通して当該作品における女性キャラクターの扱いを改善すべきとかいう意識がある訳でもなく、敢えて言うならば「(論説)1990年代から2019年現在に至るまで連載が続いている推理漫画作品を原作とするアニメ映画のストーリーから見る同時代のジェンダー観をめぐる一考察」ぐらいのもので、その正否や善悪は棚上げなんですが、

名探偵コナンに、「女性キャラクター」は存在しないと思う。

毛利蘭、灰原哀遠山和葉、確かに彼女らは存在していますが、作中における彼女らは、彼女らと関係する男性キャラクターなしに存在し得ないものとして定義されている。

名探偵コナン、当然主人公は江戸川コナンくんなので、事件を解決に導く主体的な存在者は、主人公たる江戸川コナンくんである。その主人公であるコナン君と共に行動を共にし、真相を把握し、彼等の安寧を脅かす犯罪と戦うのは、常に男性キャラクターだ。

名探偵コナンの作中において、コナン君と肩を並べる条件である「推理力」を有し、物事の大局を把握して動く女性キャラクター「世良真純」が、「僕っ娘」という属性を有し、ボーイッシュな出で立ちから作中で何度か「男性」と誤認されたり等、社会的女性性から逸脱した描かれ方をする点からも、名探偵コナン作中において「推理力」を持ち、主体的に行動できるのは、男性キャラクターに限られているという事柄を象徴的に表しているのではないかと思う。

 

男性キャラクターが事件を解決し、実生活の安全保障を守る為、物語の渦中で奮闘する一方で、女性キャラクターは前線で危機に瀕し男性キャラクターの行動の動機になったり、後背にて推理のサポートをしたりしつつ、いずれも、関係づけられた男性キャラクターの無事を案じている。そして最後、物語がエンディングを迎えると共に、男性キャラクターを出迎えることで、平穏な日常が戻ったことを観客に印象付ける。

彼女らは作中の男性キャラクターに見えている大局を理解しない。彼女らは男性キャラクターの巡らせる推理をよそに、時に愚かしいまでに日常を続ける。そんな彼女らはキャラクターである以上に、彼女らに関連付けられた男性キャラクターの別側面を象徴する者として存在する。何を象徴するか? 日常だ。

男性キャラクターに包摂される一側面として存在する名探偵コナンの女性キャラクターは、男性キャラクターの日常を象徴し、精神世界の安寧を司る。

故に、劇場版で顕著に表れる日常生活に迫る崩壊の危機に際し、彼女らは彼女らの男性キャラクターの名を呼び、彼の無事を祈る巫女となる。彼の無事を待つ波止場となる。彼は心の拠り所、日常の象徴である彼女を守護する為に主体的に動き、窮地より彼女を救おうとする。らーーーーーーんっ!!!!しんいちーーーーーーーーーっ!!!!!!!

 

整理しよう。名探偵コナンに登場するキャラクターに「女性キャラクター」は存在しない。では、そのように銘打ったこの記事において、存在する主要女性キャラクターをどのように捉えているのか。彼女らは男性キャラクターに包括される一側面であり、彼女らは男性キャラクターの「日常」を象徴している。男性キャラクターが物語世界における実生活の安全保障を司る一方、男性キャラクターの日常を象徴する彼女らは、男性キャラクターの精神世界の安寧を司る。故に危機的状況において、彼女らは彼の無事を祈り、彼の為に待つのである。

 

「ずーっと、待ってたんだから」 

――毛利蘭『名探偵コナン 紺青の拳』(2019年)

 

名探偵コナンにおける女性性は、このセリフに集約され得ると私は考えている。

毛利蘭は、江戸川コナンの無事を祈り、工藤新一を待ち続ける。遠山和葉は、江戸川コナンを連れ推理に向かう服部平治に置き去りにされながら、彼の無事を祈り待つ。灰原哀は、江戸川コナンの推理のサポートを行いながら、阿笠邸にて彼の無事を祈る言葉を掛け、江戸川コナンが日常に戻るのを待つ*1。敏腕弁護士の肩書を与えられた妃英理ですら、毛利小五郎の無事を祈り待つのである*2。佐藤美和子は松田陣平を待っていた。ジョディ・スターリングはシュウを待っている。

 

で、『名探偵コナン 紺青の拳』である。

名探偵コナンジェンダーという側面から見るにあたって、本作におけるトリッキーなキーパーソンは「京極真」です。

本作、物語を走る二本の柱がありまして、一つは怪盗キッド、もう一つは京極真。前者は名探偵コナンにおける男性領域の話、このままだとシンガポールがヤバイ! 陰謀を暴け! っていう話なんですが、後者は全く違う。名探偵コナンにおける安全保障領域の話ではない。ぶっちゃけわりと痴話喧嘩。いや、一応前者の陰謀に巻き込まれてはいるんですが、京極真は鈴木園子の安全保障にしか大して関心を払っていないため、二つの柱を一つのストーリーに収斂させようとしない。京極真にそのロールは与えられていない為、その展開は存在し得ないのだ。

京極真は大局を把握しない。いや、ホテルからの脱出時とか、園子(女性キャラクター)より大局を「正しく」理解し、脱出に努めようとしているとか、言うことは出来るんですけど、とにかく、京極真は推理をしないのだ。私よりも強い男と戦うか、園子さんのことしか関心がない。その京極真が、推理をしないまま、しかし紛れも無く本作のキーパーソンとして描かれたのである。いや、なんか、こう、キーパーソンっていうか、リーサルウェポンって感じでしたけど。そしてあのセリフ。

 

「今度こそ絶対に自分から離れないでください!」

――京極真『名探偵コナン 紺青の拳』(2019年)

 

そしてそれに対する園子の返答「いや、これじゃ離れたくても離れられないわよ……」(引用とするには結構うろ覚え)って、うわ~~~~~~~~~~最高!!!!!

私の個人的な京極真イメージが「毛利蘭の男体化」なんですけど、公式がこのイメージド直球で意識して来たのかこの対応台詞は!?!!!!!!

しかもこの対応台詞と同時に繰り出されるのが、守るべき存在を背負い自分と命綱(?)で結ぶという状況。『天国へのカウントダウン』のクライマックスと類似のシーンだなと思ってうわっっっっ激アツじゃんと思いました 私の中で激アツ。 

京極真、名探偵コナンの作品世界における女性的文脈を持った男性キャラクターというか、いや、全然待たないし、何なら園子が京極さんの武者修行を日本で待ってる「待つ女」構図の一人ではあるという指摘もさもありなんといったところなんですけど、佐藤刑事と高木刑事ですら、コナン君の正体に肉薄するのは高木刑事である*3といった感じで、名探偵コナン作品世界における男女の別って、結構強固な規範であるというイメージが私の中ではあったんですけど、推理をせず、大局に関わらず、物語の真相にも大して近づいてこない、自分より強い奴と戦うことか、園子さんのことしか考えてませんッ!!!!!っていう感じのリーサルウエポンさんが劇場で暴れまわっていたことが、何だか大変印象深かった。


そういや前作ゼロの執行人も、名探偵コナン世界におけるヒーローの要素(「推理力」「志」「守るべき個人」)から一つ欠けた男がキーパーソンでしたね。自解釈だと大義の為に小さい犠牲を厭わない(し、自分が犠牲を払いきり守るものが無いので、他人に犠牲を払わせることに大した躊躇いがない)安室透とコナンくんの共闘って、めちゃめちゃヒリヒリするというか、利害が一致している限りは大丈夫だけど、一致しなくなった途端超厄介な敵っていう、ギリギリの感じがあるんですけど、今回のキッドとコナンくんの共闘は、互いに「わかってる」感があって、落ち着いて見ていられました。いやキッドはキッドで、結構エグい手使うなお前さんって感じではありましたが、

それはともかく、

前作に引き続き、名探偵コナン世界におけるヒーロー要素に欠く本作のキーパーソン・京極真は推理して大局を把握したりしない。いや、じゃあ彼は女性的役割を担う安全を祈る巫女っていうか、園子さんは自分の拳で守る!!!!!!!(ここで気合いが光り始める)エイエイッ!!!!!!!(ここで敵が10メートルぐらい吹っ飛ぶ)なので、以上で管撒いてる文章の埒外なんじゃないかなと思わなくもない。いや、埒内では? ラストの園子様はこう、明らかに無事を祈る巫女だったじゃん。ですが、まぁ、劇場版名探偵コナンにおけるこれまでの男女関係を踏まえると、映画を通し描かれたこの二人、若干トリッキーな存在であるということは出来るんじゃないかな。どうだろう?  ホモソーシャルな付き合い(推理パート)にあたってこれまでの男たち(新一とか服部とか)が自分たちの巫女を遠巻きにした一方で、京極さんは園子を遠巻きにせずなんかもう一心同体でやりやがった(バトルパート)(戦うか守るかどっちかにしろよ)とかいうぐらいの違いかなって思わなくも無いんですが。段々冷静になってきたんだ。


それにしても本作、「真実vs奇術vs蹴撃─雌雄を決するトリニティバトルミステリー!」が売り文句だったと思うんですけど、トリニティっていうか、三権分立でしたね~~~~~!!!!全然混ざってねぇし、やっぱ最後蹴撃が全部持ってったっていうか、蹴ってねぇじゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! とか、

色々あるんですが、特に今回の映画について思ったのは前作と同様、なんか対象が子供であることを慮って削られた要素があるんじゃないかという点です。

レオン・ローのスクラップアンドビルド都市構想とか、急速な開発によって現代の地位にのし上がった土地を舞台にしていることを考えると何となく、もう少し作り込んだ脚本の気配を感じなくもない。君はまだ若い ワッハッハッハッ的な悪の会合ありましたけど、単にあの話し合い、土地利権をめぐる争いだったんだろうか? しかしそれにしたって、破壊すべきはスラム街とか旧市街だと思うんですけど。やけくそかよ。ハイローの日本政府の方がまだ頭脳プレーしてんぞ。無名街爆破セレモニーの方が絶対建設的。

あと思ったことというと、その、シンガポールの西洋人多すぎでは? っていう引っかかりはあった。名探偵コナン世界における外国って、そのまま30年前の日本人の「外国」イメージを保持し続けているように思う。お前の外国、アメリカ時々イギリスしかないのか、みたいな。中国とか、イージス艦に乗って来たスパイの文脈で出てくる位しか見たことがないような気がしますけど、ほんと、あそこの人口比率的に、画面内に一番配置されているべきは華僑では? 現代日本アニメ映画におけるシンガポールのイメージって、もしかしてまだ英領だったりする? しかしながら、単純に描き分けの問題として、実態らしいものに則してアジア人一杯出すと、所謂「海外」感が出ないからっていうお気持ちもわかる、わかります。ハムスターを見て、落ち着こうと思います。

 ところでうちの紺青、他に適した置き場がないので仕方なく箪笥の上にケージを置いて、そこで飼育しているんですが、最近餌付けをしている最中なんか、拳というか手の平に留まるでは飽き足らず、向上心を持って腕に昇ってきて、結構ヒヤリハットする。

ハム等身的には結構な高さだと思うので、グライダーも無しに昇ってこないでほしい。

皮膚に爪を立てながら腕を登って来る向上心溢れるブルーサファイアを、~Never let you go~って、手の平でそっと包むと、紺青すぐさま硬直して、「そんな偽りばかりの男に守られたくなんてないわッ!」っていうどころか、どっちかっていうと「何触ってんだテメー」と言わんばかりにブチギレする。正直に向き合っていこうと思います。

 

 

 


*1:灰原哀の場合、より象徴的な行動として「男性キャラクターを庇う」が存在する。『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』(2001)、『名探偵コナン ベイカー街の亡霊』(2002)

*2:名探偵コナン ゼロの執行人』(2018)

*3:アニメ名探偵コナン File304「揺れる警視庁 1200万人の人質」