メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

52ヘルツの俺


インターネット同人オタクが行う「布教」という行為は、影響や感化という言葉に言い換えられると私は思っている。それで人生の殆どの時間をSNSに費やしていると、何か二次創作とか、或いはツイートであるとか語りという行為によって、他者に影響を及ぼす人間をよく見る。

ある特定の発信源Aをもとに、A’的な思想が、同じようなカテゴリの二次創作を見る人間たちの間で伝播していくことは、わりとよくある。一日に数度、カップリング名でSNSを検索する人間には、肌感覚的に理解される現象だと思う。ある特定の発信源Aをもとに、その他の発信源Bが感化されて、Aに類似の創作を行うことが稀によくある。一般の創作活動のことはよくわからないが、二次創作では割とよくあることではないか? 実際の数を取った訳でもないし、そもそも「類似の創作」という言葉自体が極めて感覚的なものなので、これはあくまで私のお気持ちでしかない。

 

お気持ちついでに、自分の話をする。

 

私は自分が見たいものを見るために自給自足的に二次創作をすることがあるが、それを公開する根性の根底にあるのは、あわよくば自作が他者を感化しないだろうかという魂胆だ。

他者のする二次創作は、明確なファンアートというわけではないが、特定の発信源Aに感化されただろうということがわかる解釈の何かしらが観測されるのは、個人的に珍しいことではないと思うのです、

が、

自分のする二次創作でそういった現象、あんまり観測したことはない。

ジャンルとかほぼ被ったことがないけど十年近くフォロワーしてるフォロワーがお情けを掛けて下さって、たぶん敢えて私に寄せた話題をして下さることが稀にあって、いつだって私は所謂フジョシが言うフォロワーというべきか、だが友達というには経緯が謎でフォロワーとしか言いようのないフォロワーの情けで、私は、たまに人間らしい交流を得ているんですけれど、

実際自発的に類似の枠組み(狭義の推しキャラクター、カップリング)で思考する他者の脳を見ていると、自分の思考が伝播することって、ビックリする程無い。

稀に何か感慨やら感銘やら受けて下さったらしい他者の脳が、匿名メッセージサービスに「私さんのお蔭で成仏できました」に類するメッセージを残して成仏していく。待って! 置いていかないで…… 

 

先般、異なるカップリングを主専攻とする他者の通話にチャットで参加させていただくとかいう厚顔プレイをした時も私、この類の話をしたんですが、笑いと憐憫を無理に奪いに行ってしまった気がする。お前はいつもそうだ。文章を読んだ人間が勝手に死ぬ、何で? 他者が言うには、私の二次創作が、なんかそういう、成仏させるタイプの二次創作であるらしい。

 

この話を他者にさせた時に私、思い出したWikipediaの記事があって、以下の通りなんですけど、

 

52ヘルツの鯨(52ヘルツのくじら、英語: 52-hertz whale)は、正体不明の種の鯨の個体である。その個体は非常に珍しい52ヘルツの周波数で鳴く。この鯨ともっとも似た回遊パターンをもつシロナガスクジラナガスクジラと比べて、52ヘルツは遥かに高い周波数である。この鯨はおそらくこの周波数で鳴く世界で唯一の個体であり、その鳴き声は1980年代からさまざまな場所で定期的に検出されてきた。「世界でもっとも孤独な鯨」とされる。

 -「52ヘルツの鯨」 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』(最終確認日2020年10月12日)

 

 

これ、俺か?

 

ジャンル被らないのに年単位ツイッターで相互フォローをしているアカウントがいくつかあり、時折それらのアカウントの温情によって他者と脳を接続させて頂いたり、こう、他者に思考を伝播させて頂いた心地を得ることが出来るので、52ヘルツの鯨より、私の方が強いです。

 

こうして10年近くツイッターに時間を浪費し、一応四半世紀は「人間」をしている筈なんですが、人と話を合わせられない。10年近くツイッターをしているからか?

この間駄々をこねて、身近な他人を直島の地中美術館に連れ込んだんですけど、同行者との行動の乖離が顕著で、待ち時間にはお互い話す話も大してなく、船着き場近くの墓標の形をチェックしたりしていた(趣味だ)。墓に興味津々の私を置いて、同行者は同行者で何かしている。

私、「慣れ」で人間関係を何とか乗り切っている。もっと言うと、「他人に慣れさせて」人間関係を乗り切っている。

 

直島に行ったのは今年の9月かそこらなのですが、思ったより普通にフェリーもバスも出ていて、大した問題なく観光できた。

私は当初、直島のことを「美術作品しかない無人島」だと勝手に思い込んでいたのだが、いたって普通の有人島で、小中もあれば、なんか国道らしい道もあった。無礼な話で本当に申し訳ないが、普通に島だ。

宇野港から向かった私が見た、島の北側のファーストインプレッションが中々の禿山で、私は絶対無人島だろうと無礼な確信をするなどしたんですが、普通に島でした。

 

www.naoshima.net

 

直島の島内には、バスが回っている。私が到着したのは宮ノ浦エリアの海の駅なおしま付近ですが、そこから本村エリア⇒積浦・琴弾地エリア⇒美術館エリアの入り口まで向かうバスに乗って移動した。同行者は島を回るなら自転車だろうと言っていたが、私が頑なに拒んだ。十年近く自転車に乗っていないからだ。

町営バスの終点はつつじ荘で、そこからはベネッセの運営するバスに乗り換えになる。町営バスは有料、ベネッセバスは無料である。

つつじ荘には「おやじの海」の碑が立っており、そこでは「日本」は古来より戦争負けなしということになっているが、古来っていつだ、白村江の戦いについてどう考えているのか、そもそも「日本」という領域概念ってどの辺から出てきたんでしょうか。自国のアイデンティティ意識をほぼ明治期に求めるタイプの思考をしがちということもあり、前近代のことが何もわからない……

 

つつじ荘から美術館エリアに向かうベネッセバスに乗り、地中美術館まで行った。ベネッセがオススメする観光方法は、徒歩ないし貸し出し自転車*1で野外展示を見回りながら歩くことらしいのですが、一向は日頃の不摂生も祟っており、いつかの修学旅行のように、いつまでも元気いっぱい!というわけでもない。

何せ、旅行をしている時点で、もう既に、だいぶ疲れている。日頃と違う環境ってこんな疲れる?ってぐらい、疲れている。ブログ記事にしているようなこれまでの旅程もだいたい疲れているのだが、年々疲れ記録を更新している。今年度最高の疲弊。

直島はアップダウンが激しいので、万一自転車で回っていたら中々疲れていたと思う同行者がどう思っているかは知らないが、地中美術館までベネッセのバスで一路、ベネッセの出しているバスで向かうことにした。

 

benesse-artsite.jp

 

地中美術館は、完全予約制である。これはコロナの影響ではなく、なんでも2018年から、観覧環境の整備のために、そういうことにしていたらしい。モネの睡蓮と、なんかあと色々現代美術の展示がされている。

 

WEB予約をした時、何も考えず適当に空いているところに予約を入れたため、残念ながらバスの時間と全くかみ合わず、入館予定時刻一時間前に到着した。

受付でまだ人数枠に余裕のある一番早い時間に変えてもらう交渉をしはしたものの、30分ぐらいはそこの、バス停ともインフォメーションセンターとも受付ともつかないところにとどまった。地中美術館の建物入り口と、チケット販売所もといバス停に程近い「入り口」は、徒歩五分程度離れているのだ。

 

クリスチャン・ボルタンスキーという芸術家がいる。略称はCBらしい。死や不在について扱いたいような作風が多く、きっと殆どのオタク属性持ち人間は、こういう死や不在について視覚的に表象された空間に飛び込んでいくのが大好きなんだろうと私は思い込んでいるが、そのクリスチャンボルタンスキーの展示が、直島周辺の島でやっていることを、私はここで初めて知った。瀬戸内海のアート系の島でなんかやってるっていうことは知っていたので、思い出したという方が正確かもしれない。

地中美術館のチケット受付口側にあるインフォメーションセンターなんだか売店なんだかといったところにあるパネル案内によると、場所は豊島だった。実り豊かだったもんで豊島と名前がついたが、一時不法投棄が問題になったとか何とか。

クリスチャンボルタンスキー作品の存在を知ってたら、豊島に行ったかもしれない。自分の心臓の音、登録したくない? いや、わからんけど。でも多分、豊島で心臓の音に包まれよう!って言ったら、同行者どころか友達も失いそうな勢いがあるし、地中美術館で良かったんじゃないかと、今はそう思っている。

 

入り口に向かう途中、アブだかハチだかと微妙な距離を取りながら地中の庭を抜けた時、地中美術館っていうのは何とも珍妙な名前だと言ったのは同行者で、その建物は確かに妙なつくりをしている。

私はこう例えるしか能がないので、唐突に話が飛ぶんだが、東京は武蔵野台地の縁なんだかで、台地の上にあって土地のある程度高いところと、台地ではなくってなんだか低いところの高低差が激しい。

例えば、東京大学周辺の道をグーグルマップで調べて、まぁある程度近いし歩いてみるかと足を伸ばしたら最後、恐ろしい高低差に取り込まれて日差しに焼かれHPの残りゲージが赤になる感じだ。自分の大学構内にも台地によるよくわからん地形があり、南側から見ると平屋の食堂が、北側から見ると二階建ての二階部分にあったりする。

地中美術館もそういった作りをしているんだか何なんだか、何ていうんだろうなアレと思いながらWikipedia地中美術館」の記事を見たら、「山の稜線に埋まった建築の構想」と書かれていた。つまりはそういうことである。

別に階段を下りて地中に潜った感じはしないし地下ではないのだが、より高い場所に埋め込まれるようにあるので地中にあることは確かだ。

 

地中美術館に展示されているモネの睡蓮は晩年のものであり、私は色彩鮮やかで明るいのでいたって好印象だったが、同行者は人間年老いると適当になるんだなという印象を得たと言っていた。

 

地中美術館から宮浦港まではなんと下り坂なので意外と歩ける。お地蔵様が一定間隔で点在していて、〇〇箇所目のお参りというような言葉が石に刻んである。歩道はない。道は広いが、プリウスが来たらどうしようというようなことを言い合いながら道路脇を歩いた。

その内に平坦に開けた住宅街に出て、住宅街の果てに隆起する山を迂回するよう道を選んでいくと、広い車道にぶつかる。そこからこれまで歩いてきた方角を背に真っすぐ歩いていくと、港に戻る。道中では同行者の悪友の風俗狂いがピンポンマンションを訪れたらしいという話をしていた。

 

そうやって肉を伴う交流の中で、私はこれまで、善意の他人に、自分の有り様を慣れさせる形でのコミュニケーションばかり取ってきたように思うので、道に落ちている銀杏の実を指さして金玉!と発言することを許されない段階で、他者とどう関係を取り結べばいいのかというところから頓挫している。

じゃあ、否応なく他人と交流しなければいけない場面で何を話をしているかというと、延々と、天気の話をしている。急に寒くなりましたね、そうですね、衣替えをしなければいけませんね、オフィス用の衣服を春物しか買わなかったので、妙にパステルカラーで、目を細めるとマスク越しには笑顔に見えているだろうと私は思っているが、もともと細い目なので実際どう見えているかはさっぱりわからない。

 

肉を伴う交流で既にどこか挫いているところがあるからして、肉を伴わないSNSで他人の善意につけこむタイプのコミュニケーション以外を取れるかというと、そうでもないのですが、しかし、SNSを見るとどうにも、なんか、他人と他人が、あまりにも深い溝のあるように思う人間と人間同士が、あまりに容易くつながっているように見えるし、他人と他人の脳同士があまりに容易くBluetoothされて、他人好みの創作が伝播されていくような様を見ることが多いんですが、あれってマジでどうやって、何の話して交流を深めているんでしょうね? 図画における視角の優位性と適切な言葉選びによる簡潔なツイートでしょうか、適切に読みやすい文章と素直なキャラクター性でしょうか。

私はもう界隈に自分の解釈が伝播してくれとは思わないから、他人に自分好みの話を出させようとも思わないから、どうか、読んで勝手に死なないで欲しい。マジで、メッセージとか頂けるだけで本当にありがたい年単位のイベントなんですけど、遺言ばかりを残していくな。俺の性癖を殺してくれ! 

 

というようなことを数日前、領域の異なる(主専攻カップリング違いの)人間同士の通話にチャットで参加させて貰った時にそうやって口をついて出たっていうか、「オタクすぐ成仏するじゃないですか」というようなことをチャットに書き込んだ私は思っていたんだなと、ようやく理解できたのですが、このタイムラグは現代の大SNS時代におけるコミュニケーションではおよそ絶望的。無線で遊ぶな。有線で遊ぼう。脳味噌を直接LANケーブルで繋げ。頭にハエ止まってんのか? 

こんなことなら、52ヘルツの鯨だったらよかった。公式の情報も気に入っている他人の脳の動向もなんかよくわからん原理でBluetoothされた人間たちの動向も一緒くたに見て、自分ができないことを軽々としてみせる他者の群れを前に感情が滅茶滅茶になったりしないし、

でも、鯨もコミュ力が全ての世界だったらキツいな、というか、鯨の生態ってよくわからんなって思って、ひとまず、52ヘルツの鯨のWikipediaページをまじまじ見ていたら、メインで調査チームを出している研究所の地名が中々な名称だなと思って、ほんとうに、クソ脳!

 

 

*1:1500円ぐらいで貸し出してくれそうな店が、海の駅の目の前に三軒あった。内1件は事前予約優先だった