軍人墓について調べたので、追記で簡単にまとめている。
参考にした本は以下の通りである。
小田康徳、横山篤夫、堀田暁生、西川寿勝(2006)『陸軍墓地がかたる日本の戦争』ミネルヴァ書房
田中丸勝彦(2002)『さまよえる英霊たち―—国のみたま、家のほとけ』柏書房
原田敬一(2001)『国民軍の神話 兵士になるということ』吉川弘文館
横山篤夫(2008)「戦没者の遺骨と陸軍墓地」(財)歴史民俗博物館振興会『国立歴史民俗博物館研究報告』第147集、pp.93-131
墓域内の軍人墓について
・地域の墓所等にある、軍人墓(往々にしてなんか背の高い墓石)について、
・特にアレは誰が、何の規定によって作った(と思われる)のか
等を、図書館で入手可能な本の範囲で簡単に調べた。
なお、先に挙げた参考文献のなかの『さまよえる英霊たち』については、個人的に所有しようと思いメルカリで購入したところ、誤配された上に補償もされなかった。
※具体的な経過は以下の通り。
メルカリ便で発送されたため、配達状況がアプリ上で確認できた。配達状況が「配達済み」になって数日経っても届かないので、メルカリ事務局に問い合わせ追跡調査を行ったところ、手元には届いていないのだが、「宅配済、誤配ではないので受け取り評価をしてください※24時間以内に進行がない場合、事務局側で取引完了させます」との連絡が入った。本件キャンセルで手打ちできないか出品者側と交渉している最中に、メルカリ事務局から介入があり強制的に取引完了。
オンライン本屋で新品探すより断然探しやすいし早いので、私はメルカリで時々中古書籍を買うことがあるんですが、メルカリより先に中古であればブックオフ等を検討した方が良いかもしれない……未来の自分さん、頼む……俺の800円を教訓にしてくれ……
調べた内容は以下。
1872(明治3)年12月に兵学寮*1生徒が死亡したことを直接のきっかけに、大阪真田山に兵隊埋葬地(陸軍埋葬地、後の陸軍墓地。海軍であれば海軍墓地)が作られた*2。
1873(明治4)年廃藩置県実施以降、徴兵制度に基づく兵制の確立につれ、兵隊埋葬地は全国六か所の鎮台*3をはじめ、各地の軍事施設に付随して設置された*4。
原田によると、「国民軍の誕生は、「臣民の義務」として徴兵された民衆が、入営中に死去すると村に帰ることは許されず、陸軍か海軍の管理する墓地に葬られることをも意味した。」*5とのことであるが、これは定かではない。
小田ほか(2006)によると、陸軍墓地設置のねらいは、兵役の最中の死を丁重に弔う必要*6
原田は還送の困難を指し、「村に帰ることは許されなかった」と述べているということか。
1874(明治5)年10月、陸軍省は「陸軍埋葬地ニ葬ルノ法則」により、階級により墓碑の規格を統一した。これにより、墓碑の大きさは軍隊内の階級に比例し、また墓標の形状も形が柱で形が四角錐の形状に規定された。形状の選定理由については諸説ある*7
特に真田山陸軍墓地については、初期の規定に「埋メ方」の項があることから、土葬であったと考えられる*8
日清戦争後、1894年7月の「戦時陸軍埋葬規則」には、場合によって火葬・合葬してもよいという規定が加わる*9。その際、遺骨は内地の陸軍埋葬地に還送され、改葬されるものとされた*10。
1904年5月、「戦場掃除及戦死者埋葬規則」が制定される。これによって日露戦争以降、戦場での戦死者は火葬が原則となる。また、遺体は戦地に仮埋葬し、内地の陸軍墓地に後から還送することが定められた。その際、下士官・兵卒は集団火葬もあり得るとされた*11。
さらに日露戦争での膨大な戦死者を受け、各陸軍墓地では、戦死者の個人墓ではなく、戦争・事変ごとの合葬墓で葬ることが基本となった*12。
横山(2008)によると、戦死者の火葬が始まると、戦場で火葬された遺骨は、還送されて遺族に届けられ、その分骨が陸軍墓地に集められて合葬墓に納骨された*13
家や村の墓地に建てられた軍人墓の維持管理は、遺族の負担であった*14。そのため、特に兵役従事者が若くて未婚等の場合は、墓石が行方不明になっていることも珍しくない、とのことだった*15。
1937(昭和12)年からの日中戦争の開始とともに戦没者が急増し、これを受け忠魂碑が村ごとに建設された。兵の出身地では招魂社の創建、記念碑建設という、新たな慰霊顕彰施設を求める動きが盛んになった*16。政府当局はこれを精神的動員の一つとして活用するため、「一府県一社の護国神社制度」等の規制を加えた*17。
1939(昭和14)年11月、神社会と顕彰会幹部の懇談により、遺骨は忠霊塔、霊魂は靖国神社・護国神社で追悼するという棲み分けが図られた*18。
満州事変から1942(昭和17)年頃まで、戦死者は「名誉の戦死」として、地域社会で盛大なセレモニーを伴い迎えられた*19。
横山(2008)によると、『国立民俗博物館調査報告書一四』の中では、この公葬の後に、家としての葬式を通常通り行い、家の墓地に単立の軍人墓碑を立てて遺骨を納めた、という証言がある*20。
戦死者の墓は、「代々之墓」と同一の墓域内に建っているものもあれば、別の墓域や、墓域外に独立して一基だけ建っていることもある*21。
墓石の形状は先が尖っており、陸軍の鉄兜を模したり、星のマークが刻まれたりしているものもあり、丈が高い*22。墓石の形状については、先述の陸軍墓地で取り決められた墓石の取り決めに揃えるよう、行政から遺族側に「指導」が入ったものと田中丸は推測している*23。
田中丸は九州北部での調査を通し、戦死者に対しクニから支給された金員は、国殤祭祀のためだけに使うように指示されていた、ということを確認した。これゆえに、戦死者を代々墓に合葬することも、墓碑建立の延期・取りやめをすることもできなかった、とのことである。家墓における「英霊」が一人墓である理由につき、田中丸は陸軍からの通牒が理由であると述べている(田中丸(2002)、103頁。))。
家や村の墓地にある軍人墓について、本来は火葬し還送された遺骨が納められているということになる。
一方、ガタルカナル戦後は遺体回収が出来ず、名前を書いた紙や名目上「現地の砂」等を箱に入れて「遺体」として還送している。そのため、軍人墓を指して「あの下には何もない」という説明を受けることがあるのかと考える*24。
*2:以前から徴兵中に亡くなった将校や兵士を葬る場所の確保は問題とされていた。原田(2001)、216頁
*4:戦前には日本内地だけでその数は80を越していた、とのこと。小田 ほか(2006)、5頁。 なお、ここでの戦前は「太平洋戦争」前と推測する。
*5:原田(2001)、216頁
*6:「兵役の最中に病死・事故死・戦死・戦病死などがおこった場合は天寿をまっとうした死に方とは違う、市の場面に家族や縁者も立ち会えない「不慮の死」という扱いになる。日本では古来より「不慮の死」がおこった場合、丁重に葬り祀らないと死霊が祟るという「御霊信仰」が広く信じられていた。」小田 ほか(2006)、26頁。、および兵士の故郷と軍隊の宿営地が離れており、遺体を還送するのは困難であったため、と述べられている((小田 ほか(2006)、26頁。
*7:小田ほか(2006)、27-28頁。
*8:小田ほか(2006)、28頁 ただし死因が伝染病の場合は、感染予防のためただちに火葬とされた。
*9:日本における火葬の一般化は、北陸等浄土真宗が強い地域を除き、1948(昭和23)年墓地埋葬法の制定以降、特に高度経済成長以降と言われている。岩田重則(2006)『「お墓」の誕生―—死者祭祀の民俗誌』岩波書店 など
*10:小田ほか(2006)、29頁。
*11:小田ほか(2006)、29頁。
*12:小田ほか(2006)、29頁。ただし、平時の兵役従事者の死亡については、引き続き個人墓碑が建てられた。また、遺族からの願い出がある場合、満州事変以降にも個人墓碑の建立が許されていた。
*13:横山(2008)、98頁。
*14:横山(2008)、98頁。
*15:横山(2008)、98頁。
*16:横山(2008)、98-99頁。
*17:横山(2008)、99頁。
*18:横山(2008)、99頁。
*19:横山(2008)、102頁。「名誉の戦死」セレモニーについては横山(2008)、102-105頁、田中丸(2002)、27-39頁など
*20:横山(2008)、102頁。
*21:田中丸(2002)、98頁。
*22:田中丸(2002)、98頁。
*23:田中丸(2002)、102-103頁
*24:ガタルカナル戦後の遺体還送については、横山(2008)105-126頁。また、海戦での沈没等の場合は、遺骨が回収されることはなかった。