有難いことに「羅小黒戦記の風息について何か書けそうだったら書いてみて」というリクエストを頂いたのですが、私は羅小黒戦記について、そこまで深く作品世界を把握できていない。
代わりに個人的な風息の感想文を書きました。
※映画の核心部のネタバレを含みます
羅小黒戦記を東池袋で見た。移転した後のアニメイト本店の奥にある映画館だ。
使う路線が変わってから、池袋にはめっきり行かなくなった。アニメイトから出てきたオタクたちが、ブラインド商品やらトレーディングカードやらを闇取引していた公園の裏は、記憶では、なんだかずっと工事をしていたような記憶があるが、先日映画を観に行って初めて、あそこの工事が終わったことを知った。
件の工事現場は、見事に高級化されていた。この驚きを友人(私にもいる)に報告したところ、「今年の夏からそんな感じだったよ」という返答が来た。呆れのあまりスタンプも出ないようだった。
私が勝手に「取引現場」と見ていた広場を改めて見て、そこで初めて気づいたんですが、あそこ実は公園で、中池袋公園と言うらしい。
羅小黒戦記を見てから、風息公園について考えている。彼が、あそこに名を残され、記憶されることの意味合いについて考えていた。
私は、「想像の共同体」論や集団の記憶概念に大いにかぶれ、文献史学の現場にアイデンティティ論を持ち込んで論文の構想発表をしては、土台から組み直すことを繰り返していた学生のひとりだった。そういう趣味だ。
羅小黒戦記の感想を脳から出してくるにあたり、他人の反応をツイッターで調べたが、羅小黒戦記を平成狸合戦ぽんぽこと並べるツイートをいくつか見たし、私もまさにそのような見方をしている。
風息公園が安らぎの場所になることは、映画媒体で私個人が見る限りの「風息」個人が望むようなことでは間違いなくないし、それは彼の有り様に対する侮辱でさえあるように感じられる。
ぽんぽこにおける多摩の狸は、ニュータウンに残された緑を歓迎していましたか? 蚊の大量発生で廃墟になるのならばまだしも、安らげる公園として開放され、都市居住民等に受容される様を、彼はこの上ない分侮辱として見るだろう。
【リアルラピュタ】中国四川省成都に建設された高層マンション群。緑あふれるベランダが売りだったのに、
— Jun-Jun (@biblio_babel) 2020年11月15日
蚊の大量発生によりほぼ無人の廃墟と化した悲哀の街。蚊と緑に侵蝕され、都会とは思えない静かな時間が流
れる光景は、ほとんどラピュタ。 #クソ物件オブザイヤー2020 pic.twitter.com/0ij0buatGF
ところで、戦記という単語の意味を検索エンジンで調べると、多少のブレはあるが、概ね「戦争の記録」程度の意味合いとのことである*1
中国語でも、だいたい同じような意味だと思われる。
試しに「戰記」「战记」で検索してみたらトップに出てきたグーグル翻訳は「记录」という結果を出してきた。要は、「記録」である。
これはどこまでいっても私の主観であって、本作の背景や作品世界そのものに関する調べものの一切を欠いたところから出る、ただのお気持ちですが、死人は喋らない。
原作ストーリー上において死亡したあるキャラクターが自己の死を回顧する類の二次創作は、同人オタクの得意とするところであり、私もやりますが、死人に自らの死を言及させるのは、生きているもののすることであって、死人の口を借りて語られる言葉は、生きているものの希望であったり幻想であったり都合のいいこと、あるいは強迫観念かもしれませんが、とにかく、死人が喋る言葉、死人に付与される属性、あらゆるイメージ、観念、思想、主張は、死人当事者のものではないというのが、このお気持ちの前提となる私の主観としてあります。
話は飛びますが、「歴史」というものが時間の屍であるとするならば、同じようなことを言えるのではないだろうか、とも思っている。
というのも、歴史って大体、「勝者」というか、何であれ生き残ったものが、事柄を書き残すなり作るなり編集したりなどして、いずれにせよ、何らかの主張や目的に利用され、供される傾向があるように感じているからだ。
生きようが死のうが何であれ、歴史からは逃れられない。その「歴史」を使って何を主張し、どう利益誘導をしたいのかという思惑は兎も角、人間が人間を再生産し続ける限り、何かしらの歴史からは逃れようがない。それは時間経過と言い換えることもできる。
わかりやすい例として、「先祖」の概念がある。死人は墓に入れられ供養が終われば先祖になり、顔も知らない子孫を見守る概念存在として利用される。そうでなくとも、何らかの形で、かつて在った死者は、生者によって利用され続ける。
映画の後のタイムラインにおける作品世界において、人間市民と作中世界における精霊の交差点として扱われるかもしれない、猫の集まる風息公園。
映画作品を一度だけ通しで見ただけの個人が想像しうる程度の風息からすると、非常にグロテスクであり、冒涜的な絵面であるように思えますが、当人の死後に残る意思は、生きているものが想像したものでしか有り得ないし、ああして生きることを止めた彼が、「場」として利用され、その名前のみが残るというのも、一つの有り様だなと思いました。
過去の動乱を超え、かつての出来事の文脈から乖離し、穏やかな空間として、都市、人間、あるいは人間と共存を選ばざるえない精霊らにとって「望ましい」時系列の中に、風息の名は残されていくのでしょう……
ということを感想を出すにあたって長々考えるなどしていたんですが、彼、木属性じゃないですか。実はあれでいて、コールドスリープに入っただけみたいな展開だったら、こう、高笑いしますね。
人類が滅び絶えた後に、風息の人生第n部がスタートかもわからん。どっこい彼の戦いは、まだ終わっていないのかもしれません。それを「人間」が見ることは、おそらくないのかもわかりませんが……
『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』本予告映像
*1:コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E6%88%A6%E8%A8%98-88075(閲覧日2020年11月21日)