メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

ほんとの愛はここにある?

 

「けものは居てものけものは居ない」(どうぶつビスケッツ×PPP、作詞作曲大石昌良ようこそジャパリパークへ』(2017)より)

 

 「ボノボは個体間の緊張やストレスが高まると、濃密な性的接触によって解消します。成熟したオスとメスの場合はそのようになりますが、同性間や未成熟な個体の場合でも疑似的な行為を行うのです。人間の社会もまた、ボノボ型の愛の社会へと作り変えることが急務でした。」(ミノシロモドキ)――アニメ『新世界より』第四話「血塗られた歴史」より

 

四季を二十巡り以上して来たものの未だに芸能欄の存在意義が分からない。

画面一枚隔てた所にあるという点においてはアニメキャラクターと大差ないのにも関わらず、正確に芸名を覚えている芸能人と言えば両手で数えられるかどうかも怪しい。ひょっとすると片手で足りるかもしれない。これが声優となるとピースサインで足りる。正確に名前を憶えているのは遊佐浩二野島裕史だけである。たった二人でさえ誤字を恐れてたった今Yahoo検索をした。

およそ芸能というものに対し興味が無いと切って捨ててしまえばそれまでのことだ。花の学生時代を大いなるゆとりと共に暮らしていた頃は、思えば「他人の追いかけていることに興味の無い自分」に酔ってさえいた。しかしそれが何であれ、知らないとうことは誇れることではない。むしろ恥じるべきことだ。「SMAPの名前とか、さ、言えないんだよね。ワタシ」などと無駄に余韻を持って無知をひけらかしている場合ではない。知識があるから誇れるかと言えば話は別だが、無知をひけらかす行為はそれ以上のものであると過去の私は自覚するべきだった。

 

記憶している芸能人の名前が片手で数えられてしまうと起こる具体的な弊害は、他者とのコミュニケーションに甚大な損害をもたらす。つまり、趣味を共有していない人類との対話のハードルが著しく上がるのだ。

これは何も芸能人に関する無知に限らない。何にせよ見たことがある・知っている事項があるということは他人との会話の糸口をつかむ突破口であり、芸能人の名前だけにとどまらず他人の追っていることに興味の無い自分を演出して流行りのアニメや映画を追わずひたすら自分の精神世界を突き詰めていると、世界を共有できない相手との話題の種が本当に無くなる。強いても天気の話題しかない。「今日は雨が降るそうですね」「そうですね」「来る途中は幸い降られなかったんですけど」「良かったですね」「折り畳み傘を持ってきました」「そうですか」「いや、本当に曇っていますね」・・・

或いはその日あった出来事を報告することしか出来なくなる。「あの授業マジで単位来たかな」「どうだろう」「ほんとアレ大丈夫かなぁ……」「どうだろうねぇ……」・・・

精神世界を突き詰める行為が、世間一般と話を合わせる為に知識を蓄えることよりも劣っているとは言わない。最後に自分の味方をしてくれるのは自分だけだ。自分の内側を掘り下げることも十二分に大切なことだと思う。

しかし日々の努力一つで回避できる悲しすぎる会話を避ける為にも、未来ある若者は知識を蓄えるべきだ。同世代が共有していると一般に信じられているかつてのドラマやアニメの主題歌の話で盛り上がる傍らでぺんぺん草をいじめる未来を全力で回避するべきだ。

 

また、記憶している芸能人の名前が片手で数えられる上声優の名前はピースサインで事足りてしまい、一般のドラマや流行のアニメすら余り追っていないような人生を送っていると、意図せずして会話のバリエーションが著しく乏しくなっている。

当然自分の内面世界を掘り下げていれば会話する相手もおのずと限られてくるのだから普段はそれを自覚することはない。しかしある日、生まれ育った村から一生でない覚悟であれば話は別かもしれないが、全く異なる共同体出身の人間と対話するシーンが訪れ、自分の目の前に開かれた選択肢の余りの少なさに愕然とする瞬間が必ずやってくる。

こうなると相手の趣味を聞いて語ってもらうことで時間を稼ぐ程度のことしか出来なくなるが、カウンターでこちらの趣味を聞かれた所で人に聞かせられるようなダミーの趣味を持たず身一つで生きている為に適当に濁すことしか出来ない。

趣味は殊に思春期の男性同士がふとした瞬間不純同性交友関係に発展するに至る過程やその後の幸せいっぱいの未来を夢想することです。

自分に素直に生きることは決して間違っていないものの、素直に生きることに全力投球出来ない、つまり趣味を共有できる相手以外に心を開かない程度の勢いで生きることが出来ないのであれば、多くの物事にポーズであれ一応の興味を持っておくべきだし、多感な時期に無知に大してプライドを持ってしまったり、或いは他者によって趣味を抑圧されるといった経験を持つ等してそういった情操教育を受けられなかった人間は、大抵の場合無趣味状態に陥りそこから抜け出すことは難しくなると私は思う。

まずは興味を持つという習慣を、とりわけ頭の柔らかい時分からつけておくことが肝心なのだ。もしこの文章に目を通しあなたが共感して下さったならこの言葉を胸に転生し来世で是非趣味を幅広く持ち話題性に富んだ人間になれるように励んでほしい。無知は一種のハンデに他ならないのだ。来世の私、芸能に対する無知に珍妙なプライドを持たないよう今生の私は心から祈っている。

 

そして、話題の幅は狭くダミーの趣味も持たないと、趣味の世界を共有していない人間との長時間に及ぶ会話が極めて難しくなる。ただでさえ会話に関する二重苦を負っているのだからその帰結は最早当然と言っても過言ではない。自分が相手とどれほど仲が良いと思っていようと、一度食事をすると話すべき娯楽性に富んだ話題は失われる。二度目の食事では話すべきことが余りにもなく中盤から相手は携帯を見始める。同じ団体に所属していれば話は別だが、それでも途切れぬ楽しげな会話を延命できるのはせいぜい一時間が限度で、一緒に海外旅行などをしていると空港に集合し飛行機に搭乗、現地に到着するまでの間で話されるべき会話の種は全滅する。

旅行なんてものは大体が移動時間に占められている。旅行というのが壮大な一つの移動といっても過言ではない。全くの異国、場所によっては学んだことも無い第三言語が飛び交う中で二人連れ立って歩く。会話はない。交わすべき会話の種が全滅した結果、海外旅行も二日目になるとあっという間にこういった倦怠期の夫婦のような雰囲気を醸し出してしまうことになる。相手とどんなに仲が良かろうとしかし会話すべき話題もなく、互いに慣れない環境と時差で少なからず疲れていると、自然と間柄にも険のある緊張感が生まれてきてしまうのだ。

 

もし仮に友人二人(複数人いれば第三者が話題を提供してくれるので逃げ道が生まれる)で一週間以上(つまりそれなりの長期間)の海外旅行(当然大抵の場合は母国語が通じず、二人連れの場合どちらかが代表者で航空券を取っていたりする為通常の旅行以上に逃げ場がない)に来ている途中に同行者と「倦怠期の夫婦のような状態」に陥ってしまった場合、私の経験上二つの打開策がある。この記事ではその打開策について提案をしたい。

 

一つ目の策は、一度派手に言い合いをしてしまうことだ。

話題が無くなると共に口数が減ることで互いに気まずくなり、なんとなくの不安ばかりが降り積もっていくからこそ冷戦状態は生まれる訳で、一度言い争い等感情を表面に出してしまえば元々共に海外旅行へ行く計画を立てる程度の信頼関係があるのだから後は割とどうとでもなる。しかしこれで後に焼け野原が残り宿から友人が姿を消したとしても私は責任を取らない。

 

二つ目の策は、裸の関係になることだ。

具体的に言えば一緒に風呂に入ることだ。裸の付き合いと言えば多くの諸兄らが連想する肉体関係、つまりセックスに関しては経験が無い為ここでは割愛する。

 

昨年九月、フィンランドヘルシンキに一週間前後の滞在をした際私は同行者と先述の倦怠期に突入した。実に到着二日目のことだった。そこに至るまでで既に午前四時にシェレメチエヴォでホテルのドアが開く、午前五時に黒づくめの男女が尋ねてくる、ホテルのキーカードが使えない、ヘルシンキ中央駅に着いたはいいものの肝心のアパートの場所が分からず24時まで市内を彷徨う、その過程でリュックサックを置き忘れる等様々なトラブルがあり互いに早速疲弊したこともあると思う。

彼女と私は高校の同級生だった。高校時代はそこまで会話に困った記憶はないがそれは学校という共同体に共に所属していたからであって、進路を違えてしまえば最早共通する話題等どこにもなかった。

他所へ行き天気がとてもいいと言いあっても三分で静寂が戻る、外食でこれがおいしいと言いあっても五分で静寂が戻る、歩きながら口をつけば疲れた。景色など一日も見ていればその内見飽きるもので、移動中は無言で隣り合って座りながらぼうっと足のつま先を眺めていた。

 

三日目、趣味を違えている私たちは一日市内自由行動の日を作り、その後時間を合わせてトラムの停留所で落ち合ってサウナに行くことにした。有名なウルヨンカツの公共プールに付設されているサウナが間借りしているアパートから最もアクセスが良かったものの、その日は男性向けに開放されている曜日だった。

私たちはヘルシンキ市内でも最も古いサウナと言われているコティハルユサウナへと向かった。当初はコティハルユサウナではなく、ビル内にあって便利と書かれていたサウナ・アルラへ向かうつもりだったのだが、ガイドブックの見方を誤り結果的にコティハルユサウナへとたどり着いた。

地球の歩き方gemSTONE『改訂新版フィンランド――かわいいデザインと出会う街歩き』(ダイヤモンド社)(2012)p.62-63を参考にアルラまでの道のり、つまり「トラム8、9番からHelsinginkatu下車」に従いHelsinginkatuで下車したものの、徒歩一分と書かれているアルラを見事見つけ出すことが出来なかったのだ。敗因は「地図の載っていないガイドブックを過信し事前にネットでのリサーチを怠った」一重にこれに尽きると思う。

結果我々は沈黙を守って暫し歩いた後、自力救済を諦め道行く人に道を聞き、親切な老年の女性は我々を一件のサウナへと導いた。入り口にはコティハルユサウナという緑色の看板があり、軒先にはタオル一丁の壮年白人男性がアルコール瓶を片手にたむろしていた。字面が物騒だが遠目に見ている分には和やかな感じだった。実際に近づくには大いに抵抗があったが。

入り口で料金を払うと、タオルを渡された。この時おそらく追加料金でフィンランド式サウナやロシア式サウナで見かける素肌をバシバシとしばき倒す葉っぱの束(「ヴィヒタ」というらしい。材質は白樺だそうだ。)を貰う事が出来たのだと思う。記憶している限りではその料金は3ユーロかそこらだったと思うが、入り口のタオル張羅おじ集団に気圧され気が気じゃなかった為記憶が定かではない。

 

サウナ内では水着の着用が禁止である旨ガイドブックには記載されていたものの、実際は水着を着ている人と着ていない人が半々といった所で、着衣も無着衣も多くは更衣室のテーブルを囲みワインを飲んでいた。裸一貫の我々は裸であることがマナー違反であることを咎められやしないかハラハラしながらなけなしのタオルで身体を隠しつつシャワーを浴びていたものの、その内面倒くさくなり生まれたままの姿を晒しながらシャワーを浴び、サウナに入った。

サウナ手前のシャワー室では体を洗いたい各人が思い思い身を清めていたものの、備え付けのリンス・シャンプー、石鹸等は無い為持参する必要がある。私は同行者に借りた(もしかすると入り口で販売していたのかもしれない)。

また、2012年時点ではコティハルユサウナはフィンランド伝統の薪式を使う最後の公共サウナらしいが、2016年9月に訪れたときは実際の様式まで確認できていないものの、バルブを捻って水を出し蒸気を発生させるという温度管理の方法になっていて、これはこれで趣を感じるものの、薪という言葉から想像していた程の古風な印象を受けるかと言えばそうでもなかった。

薪式という言葉から連想するイメージよりも、控え目なスチームパンクを想像した方が実態に即していると思う。

 

サウナに行って互いに裸を見せ合った所で、共通の話題が増える訳では無いし何ら知識が増える訳でも無い。しかしサウナの行きと帰りでは確かに私たち二人の間に流れる空気は違っていた。あれだけ痛かった沈黙は角が取れて柔らかくなり、私たちは帰りに歩きながらたまたま通りかかったリサイクルショップを見て帰った。お土産はどれにしようと笑い合う余裕すらあった。

 

「裸の関係になる」という解決策は倦怠期に陥った際の一つ目の策法として挙げた喧嘩よりもより和やかにことを終えることが出来るので、特に温泉地やサウナが有名な所へ出かけた際は「会話が無さ過ぎて気まずくなった時は、一緒に風呂に入る」ことを是非試して貰いたい。

但し有名どころでもなければ海外で公共風呂やサウナに入るのは中々勇気のいる行為だと思う。そういったときはホテルの風呂で代用するしかないのかもしれない。

仮に脳内で頻繁に来し方行く末を妄想する男の子達が、旅行中話題の無くなった気まずさを解消する為ホテルに備え付けの風呂に一緒に入るという打開策を取った場合、私はそれを即ちセックスとして解釈する準備は出来ている。そのままお風呂セックス生本番の続編があるとしかとらえられない。

そしてさらに妄想の入り込む隙間の余りない実体験としても、サウナで裸を開示するだけでこれだけ関係が改善するのだから人間は思ったより単純であるし、ここから推測するにこれがセックスであった場合、関係は劇的な改善を見せるのではないかとも感じた(但し出国前のある程度の信頼関係は前提となるが)。

 

旅行後から彼女との音信は途絶えている。互いにツイッターでフォローをし合い時々いいねをする程度の仲だ。

一週間を共に過ごしあれほど濃密な関係を築いた相手ではあるが、敢えて顔を合わせた所でする話は尽きてしまった。

 

 

presseurope.jp