メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

しゃかいじんちゃんのにっき

 

実は成人しているんですが、他者との適切な関係の取り結び方を理解していない。

他人にされた質問を返せばいいというところまでは漠然と理解しているが、出身大学を聞かれたら出身大学を聞き返し、趣味を聞かれたら趣味を聞き返し、三往復辺りでbotじみた会話戦略が露呈してしまうことを見据えて、ひとまず聞かれるままに自己を開示している内に、相手が上手いこと話を繋げてしまい話が反れ、結果自己の経歴を露呈する人格が仕上がっている。ボールを投げ返すタイミングを掴めない。隙あらば自分語り!


しかも話しながら言葉を選ぶのが極めて苦手なのか口と頭が繋がっていないのか痴呆が始まっているのかなんですけど、口を動かしながら形容が思いつかず「ア……エット……」と止まる時間がある。テレワーク中であれば回線の不具合ということもできるが、対面じゃごまかしようがない。

トレーナーが赤子(新社会人)慣れしているからか「なんでも相談してね!」というフランクさのみを向けてくるので、赤子もよちよち歩きながら「せんぱいあのね」「いまちょっといいでちゅか」と話しかけを図るんですけど、相談する内容をある程度考えた上で話し掛けよう!という気持ちになったところで相談内容を忘れ、「すみません」と声をかけたところで、トレーナーの名前を忘れる。

「すみません、あの……いまちょっと大丈夫ですか? あっいや、今すぐって訳じゃないんですけど……えっと……なんだっけ……」

それと比べて、他人同士が交わしている会話、なんと流麗なことか! あれ何? どうやってあんな流暢に言葉を交わしているのか。ああきたらこう躱す、この話題が来たらこう返す、みたいな、定型文が頭の中に入っているのか? 優雅。幼少期から社交ダンスを習われている? こちとらキャンプファイアーを囲んでペアを変えながらフォークダンスをする波に入れない。遠巻きに火を眺めながら延々と、膝を抱えている。

 

これまで特別人間に排斥された経験がある訳でもない。むしろ他人にはよくして貰った。周囲の人間に恵まれてのびのびと育った結果がこれだ。流石に年次が上がりさえすれば自動で「所謂普通の人生」に載ると意識的には思っていない筈(無意識にまだ信じている可能性は否定できない)が、コミュニケーションって、普通に生きてたら身に着くものじゃないの? 人間は社会的動物ではないのか?

 

ところで、かつての私は労働を始めたら身も心も労働に最適化されるのではないかという夢を見ていたが、運よくそこまでの激務部署への配属ではなかった。配属先ガチャの勝利者故か元々の性質か、相変わらずインタ―ネットを見ている。そこでツイッターのオタクたちの交流を見ている。ツイッターのオタクたち、どういう仕組みであんな交流しているんだと思います? よくわからない。多分コミュニケーション勝者の社交場とかがあって、各々巧みに社交ダンスを踊っている。それでその結果発生した何がしかの作品やらツイートを淡々とタイムラインに放流していくんだと思う。

 

ほんと コミュニケーションを適切というか、軽やかに取り結んでいる人間をオンでもオフでも日々、日々観察しているんですけど、観察しているだけじゃどうしようもないし、脳味噌の内訳を踏まえずに人間の動作を見るの、途中式を組まない状態で式と答えだけを見続けているようなものなので、トレーナーから「今何してる?大丈夫?」と聞かれたときの適切な回答や会話の広げ方を私、一生分からないような気がする。あと、〇〇さんの作品が非常に素敵で~から広がる人間関係。あれマジでわからない。どういう仕組み?などと首を捻っている内に観察するアカウント同士がどんどん繋がってTRPGとかしてるの、神話的恐怖を感じる。SAN値チェックです。

 

インターネットではもはや自己をカップリングオタクに分類することもできず、うっかり他者を観察しているとすかさずブロック頂く感じの「謎」と化しているのですが、オフィスカジュアルを許容される職場で私、一生懸命人間の着ぐるみを着て、他人にオロオロ話し掛けている。

キャラクターのロールを被って他者とカップリング関係を取り結ぶ地獄遊戯(なりきりチャット)で築いたタイプ速度だけは人並みで、過去に事務員モドキをしていたこともあり、定型文でのやり取りはマジモンの赤ちゃんにしては習得している。故に自粛期間中のメール文面とオロオロ着ぐるみ人間のギャップが著しいのか、オロオロ話し掛けに来る私を見る課長の目は、となりのトトロのお父さんのそれだ。「パパお花屋さんね」と言いながら机にもぎったタンポポの花を並べるメイちゃんを見るときのあれ。いやわからん。課長の人相の問題の可能性はある。私の脳が優し気なフィルターを掛けてありとあらゆるものを誤魔化そうとしているのかもしれない。くそ、脳め! この脳が! 

 

他部署の課長と業務連絡のついでに世間話を織り交ぜていく先輩とか、タイムラインに流れる優し気なリプライの応酬とか、あらゆる約束事とか、流麗な会話とか、人間にまみれて生きている以上仕方が無いし、人間にまみれて生きていける程度には健康で元気な状態で、私、一生あれにはなれないなというのを、ひしひしと感じる。人間としての性能限界を感じる。いや、進化を強いられるまでに追い詰められていないというのも大いにあると思います。朝ひっ詰めた髪から夜後れ毛という後れ毛が飛び出していますが、今のところあまり問題を感じていないし、あした、何着て生きていく? 人間ちゃんの着ぐるみ。

 

 

人は不滅か?

 

「永遠というのは人の想いだ 人の想いこそが永遠であり 不滅なんだよ」(産屋敷耀哉 『鬼滅の刃』137話) 

 

 

定期収入が出る身分になったので電子書籍に手を染め、鬼滅の刃を19巻まで読んだ。

以下はそれとは特に関わりのないお気持ちの日記である。

 

父方の祖父は年度末に死んだので、何かと忙しい時期に親族が集まって法事をすることになる。GWのただ中に死んだ母方の祖父とは大きな違いだ。

いずれの祖父についても、孫である私が知っていることは極めて断片的だ。祖父の生前、私はいずれの祖父にも関心がなかったからだ。

 

私の覚えている父方の祖父は、機嫌のいい老人だ。私が何かすれば金に糸目をつけず寄越してくれるので、つまりお金をくれる機嫌のいいおじいちゃんである。ことあるごとに、お前そろそろ下着が必要だろう赤い派手なのを買ってあげようなという話を振って来るので、私は祖父のことを好きではなかったが、祖父の家から離れた場所に住んでいたので、実際何かあったということもない。

途中から祖父の家の近所に引っ越しはしたが、それでも学校行事に勉学にと何かと理由をつけ、定期的に会うこともなかった。私が覚えている祖父は、いつだって機嫌のいい老人だ。あと、お金をくれる。

 

祖父の息子である父は、それなりに気性の激しい人だ。私はその父のいる火薬庫で育ち、結果的に、特に食事のしつけが非常に行き届いた人間になったと考えている。

鍋をつつくようなときに、うっかりつゆのひとつが白滝から垂れようものなら、父の火薬は容易く爆発した。熱いものを冷ましてから口に入れようとするときにも、何かが気に障ると爆発するし、水を飲んだだけで怒鳴られた記憶もある。

私がまだ大分幼かった頃、父は自分の受けてきた仕打ちを引き合いに出し私の「問題」の対処にあたろうとすることがあったらしい。母がその方針を出る度に切って捨てていたために、私は九九を覚えるために定規でしばかれたりすることはなかった。

祖父の仕打ちが実際どのようなものだったかを私は知らないが、体罰を伴わなかっただけ、私が受けたものは相対的に軽かったということが出来るかもしれない。しかし声を荒げる大人の威圧は、子供が身の危険を感じるのに十分だ。

 

気性の激しさが遺伝するものとは思わないが、私も、そして父がやや老いてから生まれた妹も、気性の激しいところがある。恐ろしく虫が悪いところに何かが重なると、感情のコントロールを恐ろしく簡単に失うのだ。虫の居所が悪いと、息をしているだけで腹が立つ。その時に話し掛けられようものなら父は物に当たるし、私と妹は声を荒げる。特性としてはほぼ赤子である。これが、いつまでも抜けない。

息をしているだけで腹が立つようなことは、今となってはあまりないが、ティーンの時は大概がこの状態だった。

一方で、この怒りを覚えてからというもの、私はある程度、父をやり過ごすのが上手くなった。これには私がそれなりに育ち、視界が広くなったという要素もあるのかもしれない。

苛立っている父をうっかり引き当てた場合も、気性の荒さが火を噴く前に、すっ呆けたことを言えば、回避できるということも覚えた。何を言っているのか思い出せもしないしょうもない冗談を言えば、父は呆れて閉口したり、時に笑いだすこともある。

 

父方の祖父の法事では、祖父の子供らとその家族が、それなりに一同に会することになる。祖父の子供らは四人いるが、どれもこれも「機嫌のいい」人たちだ。彼らは決して優しくないし、間違っても寛容ではない。

どれもこれも不思議と気性が荒く、食事の席で誰かが誰かの地雷を踏み、妙な雰囲気になったり、言い争いになることもあるが、きまってそこでは、誰かがトボけたことを言って、笑って済まされることが多い。私が父をやり過ごすように、各人が各人をやり過ごしている。

 

父方の祖父について、私が知っていることは断片的だ。戦前台湾に住んでいたらしい。おそらく幼少期だろう、同窓会で台湾に行ったときに、自分でも忘れていたが、過去に俺に定規で殴られたことを延々根に持ってる奴がいたと言って笑っていた。戦後引き上げてきて、GHQが家の前の道をずっと通っていたんだと言っていた。

晩年、祖父が何かを患っていたことは知っていたが、その病名を私は知らない。入院するようになって一か月も経たずに悪化か合併症かを起こして亡くなった。強いられて、父に連れられ祖父の見舞いに行ったとき、父は鰻重を買って、病室に持って行った。祖父は珍しく自分の過去のことを良く喋った後、私の進路について自分の思うところを述べていた。私は祖父がもういらないと言った鰻重の残りの半分程をもりもり食べた。

次に会ったときに、祖父は死んでいた。通夜葬式では、この人生百年時代では思いがけず早いと繰り返された。父と同じように、叔父叔母も祖父の好きだったものを病室に持ち込んでいたらしく、好きなものを好きなだけ食わせたから死んじゃったかもしれないわねと、葬式の後に苦笑いをしていた。

 

今年も、外出の自粛を求められ始めた時期に、既に予約をしてしまったしという名目で、法事が強行された。その中でやはり集まった祖父の気性の激しい子供たちが皆、私が父をやり過ごすように、互いをやり過ごしているのを見ると、かつて祖父は確かに生き、彼らに「気性の激しい大人」というトラウマを与え、子供の所作の中に残り続けているのだなと、何だか感慨深くなった。

少なくとも、おそらく私が、癇癪じみた気性の起伏とともに生きている限り、祖父がその子供にもたらしたトラウマが、滅びることはないのだろう。

 

 

鬼滅の刃 16 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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最西端に行けば、負の二次創作者は救われるのか?

 

 

生き残れば生き残るほど、どうしてこんなにみじめなんですか (梓 みふゆ 「マギアレコード 魔法少女まどか マギカ外伝」 第12話 )

 

 

ra927rita1.hatenablog.jp

 

www.travel.co.jp

 

今でこそリモートワークと称し、自宅で社内規程や就業規則を一字一字丁寧に解釈する過程で、社会に跳梁跋扈する見知らぬ語句を調べているうちに、ウィキペディアマルクス主義用語への造詣を深めているが、昨年のこの時期には、求職のために大阪に行き、京都伏見で桜を見ながら、十石船に乗っていた。

その時私は初めて、ジャンルを同じくするフジョシとオフで面会、略してオフ会を経験したのであった*1

 

わたし、同人小説、とくに二次創作小説なるものを、結果的に十年近く書いていて、神絵師に表紙を頼んだら快諾して貰えたとか、たまに自分と同じような幻覚を見ていそうな他人の人格からの、解像度の高い感想が来ることがあるとか、そうやって、たまにはいいこともあるが、割合としてはそれが一週間、残りの九年十一か月三週間のメンタルは、「無」か「むしろ悪い」に振り切れている。

同人小説なんかを書かずにいられる人生が一番幸せだ。小説を書いている自分に自尊心を持てない場合、また二次創作における「生産者」であることの喜びに自覚的でない場合、同人小説を書くという行為は、生産性の面で最悪。書き手としては早めに正気に戻るべきだし、読み手としては推しの書き手がいるのなら、正気に戻さないために何かしらの働きかけはした方がいいです。いや、その働きかけが時に最後の一押しになることは往々にあるけれど……

 

同人小説を趣味として書いている、その行為による弊害について説明する。

第一に、同人小説を自作していると、えらい時間が掛かる。これが一次創作なら懸賞小説コンクールに応募してみるなりできるかもしれないが、二次創作なので、そういうコンクールは一切ない。生産性皆無。「趣味で小説を書いている」とも言えない。社交性皆無。同じような趣味嗜好を持つ人間の内の何割が、好き好んで長ったらしい文章なんかを読むのか?

十年以上、わたし、余暇の時間を捻出しては、自己の性癖の慰撫以上の何物にもなり得ない、虚無を生み出している。

絵であれば手に図画制作のスキルが残り、手芸であれば工作のスキルが残り、コスプレであれば化粧や撮影技術といったスキルが残り、ROMであれば自分で時間をかけて一つのものしか捻出できないということはない。

小説、何が残る? 私が今のところ手にしているのはタイピングのスピードだけです。それもなりきりチャットで培ったもので、同人小説によるものかというと疑わしいところはある。

やったところで何にもなり得ないし話題にもなり得ないという点で、ある意味もっとも人生らしい活動であるが、それはともかく、とにかく時間が溶けるのだ。

 

第二に、同人小説を書いて発表していると、同じような趣味の人間からブロックされないということがない。わたしは、きまって私が気に入って定期的に観察していた自我からブロックされる。観察しているからでは? 

たぶん私の推しの他者を観察したがるような人格ゆえか、性癖ゆえかどちらかの問題だが、とにかく、同じような趣味をしている二次創作者からブロックされる。これによってピクシブへのアクセスやboothへの作品のアクセス手段を奪われた訳ではないが、すくなくともプライベッターとかフセッターにはアクセスできなくなる。

少なくとも私にとって、この現象は結構な痛手だ。私の性根は、自分の読みたいものがないから書くというところに集約されており、気持ちはROM専に近いところがある。自分で性癖のツボ押しができるROM専です。

 

性癖や情念、怒りの捌け口として文章を多少使えるという点で、書くことは自分のメンタルをコントロールすることにはつながっているのかもしれないが、それだって文章なんか書いていなきゃ感じなかった疎外であろうし、感じなかった怒りだろう。

SNSフジョシ界隈で見ることのある「小説書き」という自称概念と、それを自認する他者の自我が憎い。架空の「読み手」に語り掛けることができる強さが憎い、読み手なるものに感謝できる在り様が憎いし、何より「読み手」に語り掛ける強さとそれに感謝する在り様を他者から承認されている様が心に来る。私は何に憤っている? 何故こうも疎外されるように感じるのか。

しかし、自分がそのように「小説書き」として在りたいかと言われれば、そうでもない。別に、読まれたいから文章をウェブにアップしている訳ではない。

架空の「読み手」に伝える気持ちで書くという行為としての小説は、とっくの昔に諦めている。虚無に話し掛けることほど虚しいことはないし、他者が他者と交流し会話しているのが手軽に観察できるSNS社会では猶更そうです。

pixivなんかで閲覧数として表示されている数字の九割は、自分によるアクセスだという自負がある。折角書いたのだから一割でも読まれるに越したことはないが、それ以上に私は、自分が読みたいものを書いているので、折角書いたものをいつでも四六時中どこだろうと読み返したい。インターネットにアップする理由はそれだ。

そうやってインターネットのどこかで公開されると、必然的に他者の目に触れることになる。悪意のある第三者に自分が書いたものを転載されるのも癪なので、先手を打って考え得るSNSで公開する。

そうすると、おそらくどうしようもない人格や性癖がバレて、善良なる創作者から先手を取ってブロックされる。

 

他人の脳から出てくる妄想を認知したいというROM専の私からすると、マジで二次小説なんて書いているからこんなことになるのであって、でも公開しないとなると自分の性癖を刺激するためだけの文章を、この大インターネット時代にいつでもどこでも手軽に読み返せない。

じゃあプライベートモードで、自分にだけわかる暗証番号とか掛けてネットに公開すればいいじゃん? しかし、それはそれで惜しいのだ。折角書いたんだから、読まれるのかもしれないなら読まれたら嬉しいし、私は他人に対しては、他人が書いた話はなんであれできるかぎりネットにアップしてくれと思いますし、読まれたらそれはそれで嬉しいので……という経緯でアップすると、さらなるブロックに繋がります、サイクルが回っている!

 

そんな私、去年のこの時期に大阪でオフの面会をして、自分が所属できない界隈なるものに関する会話といったって、(ハンドルネーム)さんの(カップリング名)のここがスゴいというような会話なんですけど、それができて、私はすごく楽しかった。

それ以来、西に行けばなんとなく救われるんじゃないかという「祈り」を、心の中に持っている気配すらある*2

SNSを使って交流できないし、性癖の文章をうっかりアップすると、他人の作品を見られなくなる。他人が他人と交流しているのを、水槽の外側から眺めて、内側と外側の何が違うんだ!?などと発狂することしきりですが、鬱屈と無自覚の祈りを持って、西の果てに行くことはできます。

 

今年の二月、コロナの話が概ね件の豪華客船の中にとどまっていたころに、ロカ岬に行った。ロカ岬っていうと、ヨーロッパ最西端の岬らしい。ポルトガルにある。

ポルトガルの首都リスボンからロカ岬までは電車で40分、バスで40分、だいたい一時間半でつくので、やろうと思えば日帰りで行けるが、通常はシントラやカスカイスとのセットでショートトリップをするのが、模範的な観光ルートらしい。

旅程で出会ったアメリカ人は「カスカイスには三週間居た」と言っていた。これから先の人生で三週間の休みをねん出する方策が思いつかない。会社辞めるか? 二か月のバカンスが文化として根付いていない場所に、人間は生まれるべきではないです。

 

リスボン市内のロシオ駅からシントラまで、電車で行く。始発から終点なのでずっと乗っていればいい。40分ぐらい、淡々と電車に乗る。8時半ぐらいの電車にのると観光客のまばらで、一車両あたり三人ぐらいしか乗っていない。

地球の歩き方の冒頭でポルトガルの焼き菓子について特集されていたので、それに乗っていた焼き菓子をいくつか、駅の売店で調達して車内で食べたが、特に美味しくはなかった。チョコレートサラミは食べられる粘土の味がしたし、マジで分厚い。エッグタルトは普通においしいが、マカオの奴の方がおいしいです。何で? 作りたてを食べたからだろうか。あるいはマカオのエッグタルトは、アジア飯を食う奴の舌に丁度いいように改変されているのかもしれませんね。知らんけど。

 

シントラからロカ岬までは、公共のバスが走っている。シントラ⇔ロカ岬⇔カスカイス周遊みたいな観光バスもあるらしいが、これは予約しないと乗れないらしい。私はそれについては調べずに行き、ロカ岬で乗車を断られた。まぁ、公共交通機関でもいける。

シントラから何番のバスに乗るかは事前にグーグルマップで調べたが、バスの側も心得ているのか、ロカ岬に行くようなバスは、「Cabo da Roca」と乗車口に張ってあったりするし、乗車した時点で「ロカ、ロカ……カボデロカ……?」というような狼狽え方をするとシだかノーだかの返事はくる。他の英語が堪能な西欧人がいい感じに質問をしていることもある。

 

リスボン近郊の交通について説明する。

リスボンのバスや路面電車、シントラやカスカイスといった近郊に向かう電車ではICカードが使える。 ヴィヴァ・ヴィアジェンカード(Viva viagem card)という名前である。駅の自動販売機で買える。ヴィヴァ……と探すと、ボタンはすぐに見つかる。

見た目は完全に緑の厚紙、銀だこの回数券ってこんな感じですか?という触った感じだが、ICカードだ。なお、リスボン市内の公共交通機関や観光地の入場無料があるリスボアカードを持っている場合は、別にこれがなくても電車に乗れる。シントラに行く場合は、シントラの世界遺産の入場チケットだか割引チケットがついている、シントラ周遊パスというのも使えるらしい。

私はリスボン空港に降りた時点で市内の観光案内所をあてにし、結果観光案内所がしまる時間までに市内にたどり着けずリスボアカードを買い逃したので、ヴィヴァ・ヴィアジェンカードと現金で全ての用をなした。

ロシオ駅でカードを購入し、よくわからんのでシントラまでのチケットを購入。この時点で多分チャージをすればよかったんだが、よくわからないままシントラまで行って、即バスを捕まえてしまい、そのまま現金(一番割高)でバス代を払うことになった。多分、三だか四ユーロぐらいした。

シントラからロカ岬に向かう道中では国立自然公園を突っ切るらしく、曲がりくねった道の果てに大西洋が見えてきた時のテンションはそれなりのものだった。

 

ロカ岬周辺は、国立自然公園なので、マジで何もない。いたって森と平原、そして崖だ。

岬の際まで行くバス停の傍には、一件の観光案内所(ここでヨーロッパ最西端到達証明書を貰える、印刷のものが5ユーロ、カッコイイ手書きっぽい文字のが10ユーロ、「袋をつけてくれ」というと1ユーロで封筒をつけてくれる。便所は有料)、一件の厳めしい顔の土産物屋(レストランを併設している)、赤い灯台と、詩を刻んだ碑がある。

とにかく、風が恐ろしく強い。観光バスで来た団体観光客が居り、「せっかく買ったんだから飛ばさないでよ!」と、証明書を抱える家族連れの声が響いていた。時間の関係か、最西端に行きたがるのはそういう奴が多いのか、日本人が多かった。

風があんまりにも強く、最初はたしかに興奮したが、しばらくすると風に吹かれていることにも疲れてきて、私は景色もろくに見ず、最西端到達証明書を貰ったらバス停近くの地面に蹲り、次来たバスに即乗って帰った。

背後に過ぎ行く大西洋に若干、もう少し滞在して何か、これからの人生についてでも思索するべきだったかと後悔をしたが、まぁ後悔が残るぐらいが丁度いいだろうと思って座席に深く座った。

 

そうやって、西に行けば何か、きっと救われるんじゃないかという信仰を私は持っていたが、西に行ったところで、別に何も変わらなかった。

社会に出ればきっと、こんな不毛な趣味から足抜けするだろうと思っていたが、相変わらず脳は自分の性癖を熱心にツボ押ししようとするし、その過程で、創作活動に楽しみを見出したり、創作者であることによる利益(創作者コミュニティ的な仲良し絵師・書き手・合同サークルたち、いません?)を受けている他者を時折水槽の外側から見て、やっぱり発狂している。

どうしてこうも上手く回っていかないのかと、勝手に救われたい気分になっても、今となっては西にも行けない。

もうどうしたら趣味で人とつながれるのかとか思わないので、どうしたらこれを辞められるのかということばかりを考えている。脳だけは、今日も無邪気に譫言を続けている。

 

 

 


ポルノグラフィティ 『サウダージ(short ver.)』 / Porno Graffitti 『Saudade(Short Ver.) 』

*1:これまでに出席した同人イベントを除く。何故除くかというと「会話」らしい会話をそこでは経験していないからである

*2:私は以前、この種の祈りを「同人イベント」と「同人誌発行」に対して抱いていた。 参考 界隈での交流/zero零細文字書きが一時の気の迷いと「同人誌さえ頒布すれば自分だって」というような思い込みでサークル参加するぐらいだったらその分貯金して南米にいった方がいい - メーデー!

キャラクター関係性オタクが「ミッドサマー」(2019)を見た感想

note.com

 

最近イベリア半島に旅行に行った。その記録をnoteに書いている。もしよかったら見ていただけたら嬉しい。ついでに哀れみも欲しい。

 

以下の記事の内容は表題の通りだ。「ミッドサマー」で上質なアマルガム(amalgam)を視聴したので、その感想を記録したい。

アマルガム(amalgam)って何? 

Weblio英和辞典によると、「合成物、(様々な要素の)混合物」*1

Wikipedia(日本語版)によると、「水銀と他の金属の合金の総称」とある*2。なおこの記事での「アマルガム」は、Wikipediaで解説されている動詞・amalgamate「混交・融合する」の意味するところに近い。

ちなみに私がamalgamという単語を知ったきっかけはUndertaleなので、内容を知っている方は例のアレをイメージしてほしい。アレ、研究所で出てくる、ゆめにっきのウボァみたいなやつだ。アレのイメージ。

 


映画『ミッドサマー』予告

 

*1:Weblio英和辞典「amalgam」,https://ejje.weblio.jp/content/amalgam,最終閲覧日2020年2月22日

*2:Wikipedia日本語版「アマルガム」, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%A0, 最終閲覧日2020年2月22日

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私はROMになりたい(コミュ不全字書き負の二次創作者ですが正の二次創作者がTLで繰り広げる同病の他者/界隈での交流・交歓を望んでしまわないために西方浄土へ行くことにした)

 

「私はカイになりたい。平和な世界で口を開けたり閉めたりするだけ。」(川添昇)(川添康子(1960)『METABOLISM 1960 : 都市への提案』美術出版社)

 

「同人小説なんかを書かずにいられる人生が一番幸せ」メーデー!』(2019年12月12日)

 

 

以下は自己分析のための文章で、まず前提として、私は二次創作を宿痾として患っているんですけど、これを患っているときの精神は、一定の周期を経ながらぐるぐると回っている。どういうことか? 二次創作をほぼしているのは間違いないんですけど、それをしている精神状態が割と定期的に変わるということです。

では、どのような周期があるのか。第一に、自分の性癖や幻覚を実体化させることしか考えていない時期。この時期に他者からのフィードバックを頂けると無論嬉しい。他方、この時期は他者の反応に対して割くキャパシティがあまりないので、フィードバックの無や負のフィードバック(「反応がないことが反応」であるといった認知のゆがみ)を気に掛けるということがない。エゴサもしない。文章は書いている。

第二に、「自分の文章は他人の精読に耐えうる日本語を成しているのか否か」がやたらと気になる時期。この時期に他者からのフィードバックにやたら執心するし、バリバリエゴサもする。わけのわからないワードで検索して、他者の目から見た自分を見出そうとする。そしてフィードバックの無いことに愕然とし、自分の文章は実は日本語ではないのでは?というあらぬ疑いを持ち始めたりなんかもする。文章は書いている。

第三は、実態として第二の時期とほぼ変わらない。ただ、他者を恨んでいる。第二期を極端にしたような状態だ。第二期のエゴサによって他者と自己の比較を覚えた精神が至るものであり、交流に向かない人間は何をしても駄目だということを繰り返し思い知るために、かえって交流を試みたり、活動的にふるまってみたりすることもある。なお文章は書いている。多分そういう病気である。

周期の切り替わりは前触れがなく、これといった切欠もあまりない。強いて言えば手を染め始めたばかりのころはおおむね第一期、他者と自己の比較を覚えた辺りで第二期と第三期を繰り返すような浮き沈みの傾向がみられる。しかし時々第一期まで気持ちが戻ってくることがあるし、書くだけ書いて公開を試みると、第二期・第三期に戻る。であれば文章を書くだけ書いて、公開しなければいいのでは?と思わなくもないが、私は文章を公開することでいつでも自分の文章にアクセスしたい性分なので、文章は公開する。公開すると自己と他者の比較をしたり云々で、世を恨み始める。

ここで公開しているのが学術的なレポートとか論文とかならまだしも、二次創作の文章である。生産性ゼロ、およそ公言できるタイプの趣味ではない。莫大な時間を費やし性癖の自家発電と自損事故を繰り返している。マッチポンプか? まずツイッターをやめろ!

 

正論は横に置くとして、主に第二期・第三期において、他者の目に映る自己を探らんとネットサーフィンをしていると、主にツイッター地方で、様々なフジョシの生態を見ることになる。

「合同サークルで原稿の進捗状況を励まし合っているアカウント」「感想がないことが感想であると覚悟を決めたツイートをする絵描きのアカウントと、作品の趣旨の自分への伝達を主張するフォロワーたちのアカウント」「サークル参加後に何らかの界隈への感謝を述べるアカウント」「(カップリング名)全然無い…とツイートするアカウント」 、

なかでも、「日頃他者のツイートをリツイートした後、「すごいすき」等何がしかの感想をツイートする習性があるアカウント」、これは弊アカウントのツイートをリツイートした後、特にこれといった言及をせず今日の夕飯の内容をツイートしたり、第三者のツイートをリツイートした後にやはり「〇〇さんの▲▲~!」と言及したりします。

後は、弊アカウントのツイートをいいねしたあと、「リツイートするかどうか迷いながらめっちゃいいなと思ってる」というようなツイートをした後、他者の創作をリツイートして手放しに感想を述べていたりします。

その他、局地的界隈のインフルエンサーリツイートされたやんと思ってみたりすると、前後のリツイートが割と伸びてて弊アカウントのツイートは手付かずの世界だったりすることもある。

 

人に、好かれない!

 

こちとら何がしかのレスポンスを求めてゾンビのごとくインターネットを徘徊する自意識モンスター。精神衛生のため、いいねされた事実とか、閲覧数がついた事実を幸福に思うべきだと思うんですけど、特に閲覧数については私が一番増やしている自信があるので、それだけ見てもぶっちゃけ他人が見てるのか自分が見てるのかさっぱりわからない。

イベントに参加して界隈だとか人間だとか世の中の万物に感謝しているように見えるアカウントも、こういう対応差を感じたことはあるのだろうかと考えることがある。他者に見られるために創作をしているわけではない(症状なので)が、対応に差があるのを観測するぐらいなら、最初から全く無視されたいとすら願うことがある(極端な思考)。

ならばインターネットに文章をアップロードするべきではない。それはオンラインで自作を見られないので困る。ので、インターネットにはどうしようもなくアップするんですけど、インターネットで観測できる二次創作者って、タグにいいね着けられたので相手の専攻分野(カップリング)に寄せた思考をお出ししてみたらなんか逆鱗に触れたのか二度とリプライ来なくなったり、「こっちのアカウントはフォロワーいないから安心して妄想呟ける」って言ってる他者のアカウントを謎に慮ってしまって、フォロー外で観察してたら「なんかいいねしてる人いて気持ち悪いんだけどどうしよ(意訳)」ってツイートされたりしたことある? 

後者については非公開アカウントからいいねしてたらそうなるかなっていうのも確かにそうで、ブックマーク機能を使いこなせよ。自己顕示欲の強いネットストーカーか!?というのもごもっとも、私のテンションがちょうど第三期にあったこともあり、咄嗟に突撃弁明リプライをして許しては頂けたんだがどうなんだかみたいなところなんですけど、多分この当該のアカウント、私が二次創作を公開していない、普通のROMのアカウントだったら、私のしょうもない感想に関心を持っていただけたりしたかもしれないし、リプライをした時点で、何がしかの交流を持てたのでは? ということを、時々思う。

別に、ツイッターの交流に人生の全てを期待しているわけではないんですけど、ツイッター上で観測できる他者が、あまりにもまぶしすぎるのだ。私も原稿作業を励まし合ったり装丁を頑張って他者に認められたり、思考の排泄物状態といっても過言ではないインターネット上の文章はこの際もういいので、それを頑張って本とかにしたときに、〇〇さんの本のこういうところが~っていう、ようわからんフジョシの推薦文をつけたりして貰いたい。

サークル参加でもそうでなくとも、他者のコメントに喜びを感じたり他者と交流したり、気兼ねなく他者の作品にコメントしたりしたいんですけど、原稿作業を励ましてくれるような存在も装丁に掛けるセンスも労力も、人に好かれるような魅力的な言葉選びもないです。

何なら、二次創作をしていることによる弊害の方がでかい。一にも二にも人に好かれないし、インターネットで好かれないことをネタにしているのでより好かれない。イベントに参加してサークル参加者同士で肉を焼いたり他者の本の感想をつぶやき合ったり、差し入れを撮影してツイッターにアップしているのが「正の二次創作者」とすると、イベントに参加してずっとスマホでブログ書いたり、二次創作によって思想と身元が知れていることから交流以前に先行ブロック頂いていて他者がリコメンドしてる作品を見られなかったり、他者から受ける対応に先述のような差を勝手に感じたりしているのはぶっちぎりで負、負の二次創作者。負女子じゃん! 正の二次創作者の骨頂たる大手がツイートする幻覚の骨子の方が、ぼくの冊子形態より伝達力が強いです。

 

そうやって思考の負女子を極めると、逆にあえて同人イベントにサークル参加したくなる。

いっそのこと、大っぴらに拒絶されたい! 他者が思想の交歓に興じている場に、異物として確かに存在したい。はす向かいにブロックしたサークル主がいて囲いの目が怖い気がするとか、ブロックされてるけどあそこのサークルの頒布物が欲しいので身元が割れないうちに貰いに行くとか、サークル間違えて駆け寄ってきたフジョシが笑顔をそぎ落とした顔で横にずれていくのとか、そういう異物体験を、4DXよりリアルに感じたい。遠目でひそひそこっちのお品書き見ながら喋ってる肉のあるフジョシを、見たい! 明確な腫れものになりたい、存在に対する苦情が欲しい! 

いや、もっと他に建設的な心掛けをしろ。まずこのブログをやめろといったところなんですけど、他者と交流を持とうにも、良かれと思ったことが裏目に出まくってるのか、そもそも私のそういう態度が駄目なのか知らんが、一方的な観察で他者を怯えさせたり、気遣い気取って相手の専攻(カップリング)に寄った思考をしてみたら、二度とリプライが来なくなったりする。

もちろんツイッターが社会のすべてではないし、私もブロックは気軽にするので全然かまわないんですけど、ツイッター上で見える社会があまりにもまぶしすぎて、二次創作ってそんな楽しいものなのか?ということを、時々勘違いしてこうも荒れるのだ。

 

そもそも私の書く文章自体、伝達や交流という点では問題がある。人にものを伝えようという意識がない。指導教官に何度一文長すぎという指導をさせたことか。博士号持ちを唸らせる悪文と考えると、恐ろしく戸口が狭い文章だし、私自身人に伝えるために分かりやすくしようという気概がない。自分さえ読めればいいと思っている。

そうすると当然読みづらいので、他者が他者にリコメンドされたり感想を呼び水にさらに読者を広げたり、そうやって界隈概念を形成したりするのを遠目に見る感じになるし、絵を描いてる人間からすれば文章は読まない、文章を書いたり読んだりする習慣のある人間からしても怪文書を量産しているヤベェ奴状態が発生する。

二次創作って、そんなに楽しいものか? 二次創作をしていることによる弊害が、あまりにもでかい。間違いなく負女子に分類されるだろう私のアレを読んでくれる人間は神、あるいは、「私が書かなければ自ら創作に手を染めかねないリテラシーと鬱屈を持った人間」に限られる。なのでまれに反応をくれた人間は、各自自分が書かねばならない他の鬱屈を見つけながら次々成仏していきます(私もジャンルによっては成仏して過ぎ去るROM専になることがある 人生は短い)。

となると、わたしの宿痾、ただ見辛いだけでなく、ともすれば、書く動機足り得る鬱屈を持つ人間を、昇華させるものとして機能しているのでは? 

 

他人とある程度文脈を共有する二次創作でこれ。人に好かれないので同病から避けられますし、おそらく類似の鬱屈を持った人間を成仏させてしまうので周囲に生まれるのは真空地帯。他の創作者は書いているから「〇〇さんの▲▲」という形で同病の他者と自己を比較したり、それで界隈という疑似社会が生まれていくと思うんですけど、書いているからこそ得られる対人利益は無。書いているから、不利益を被る。無論消費されるだけマシだが、類似の鬱屈を抱えたような人間は一瞬現れて、時に私に謝意を述べてくれると、一瞬で過ぎ去っていく。

他者が見えずにひたすら出力に躍起になっている時期を抜けて、他者の存在との中で自己を定義し相対的に評価したがる社会性段階を迎えてしまった時点で、同人小説なんか書くべきではないのでは? 

誰か助けてくれ。文脈を共有する他人がどうか書いてくれわたしの鬱屈を。ひとつの小説があるだけで、何人が告発を免れるだろうか。わたしの代わりに誰か告発してくれ。頼む、わたしを成仏させて……そうしてきょうも他者の楽しげなつぶやきを、まんじりもせずに見ている。そういう趣味なので……

 

こういう思考を持って私、うっかりまた負女子孤立極まるサークル参加を再び試みかけたんですけど、ブログに思考を書き残していた過去の私が、サークル参加するぐらいだったら南米に行った方がマシだって言っているのをわたし思い出して、丁度卒記の時期ですし、タイムラインが前提とする社会から離れた、どこか遠くに行くことにしました。

本当は地獄寺に行きたかったんですが、世は大コロナ時代。かといって「コロナだったからね」と、社会が来年に私に卒記旅行をさせてくれるわけでもないので、コロナから遠そうな西方浄土、ヨーロッパさんにいくことにしました。

航空チケット予約の手は本当に早くて、他者にリスト追加を乞うリプライを送るよりも、他者の募集に名乗りをあげたくなる気持ちと向き合う間に、リプライがどんどんついて締め切られるまでをまんじりもせず見守るよりも、私に言及していそうなツイートを見掛けてはリプライを送るか迷い、結局リプライを送っても何ら話が深まるわけでもなく、自分がいかに他人から話を引き出すのがドヘタクソか思い知る時間よりも、何よりも早かった。孤独は速度。

連れ合いはいなかった。大概皆社会人か、もっと賢い時間と金の使い方をしている。大枚はたいて命乞いをしにいったりなどしない。まして大コロナ時代である。この時期にヨーロッパなんか行ったら、乗車拒否とか宿泊拒否とか入場拒否とか、満を持してされそうじゃない? 自己の存在に対する、明確な拒否の眼差しを受けにいく。わたし、腫れ物になる!

 

そう思って意気揚々と阪急交通社のスペインの概要サイト見ると「首絞め強盗」とか「睡眠薬強盗」が強盗の古典らしいです、スペイン。ヨーロッパですよね? せめて平和的にスって欲しい。「首絞め強盗」への対応策は「無抵抗 大人しく所持品を差し出せ」だそうです。

続いてポルトガルの概要サイトを見ると「女性の独り歩きに注意!」だそうで、好き好んで女性で一人で歩きたい訳じゃない。女性でありたい訳でもない。選べるならマイク・タイソンになるか友人と一緒に卒業を記念したい。修士課程は孤独、孤独は速度です。

悟空も沙悟浄猪八戒も道すがらで見つけられる自信がない(見つけられたとしてパーティーを維持させられるコミュニケーションを取れない)ので、せめてインターネットととのつながりは持ち続けようと思って、普段はポケットWi-Fiは高いから借りずに現地のWi-Fiに頼り切りなんですけど、丁度イモトのWi-Fiで半額セールを3月31日までやっていたのもあったので、借りたWi-Fiと一緒に旅行することにしました。

 

ところでWi-Fiと一緒に旅行するにあたって、前回借りたWi-Fiと旅行した時、スマホが勝手にうっかり電源を落とし忘れていたWi-Fiと接続してソフトウェアアップロードを始めたために残量が終焉を迎え、金を出して無用の長物と化したWi-Fiと一緒にアウシュヴィッツ強制収容所跡地を巡った経験を繰り返さないため、ここにアンドロイド自動更新の無効化に関するメモ書きをします。

 

機内モードにする これは空港でやる。データローミングが発生すると路頭に迷うことになる。

 

②アプリの自動更新を止める グーグルストアの設定からできる。

appllio.com

 

③OSの自動アップデートを止める 前回はこれで容量をやられた。

システム→詳細設定から開発者向けオプションに飛ぶ そこからOSの自動アップデートを無効化する。

menulist.mb.softbank.jp

usedoor.jp

 

友だちはいないからネットにクワガタの絵を描く

 

ツイッターで生きているとたびたび、「光の腐女子VS闇の腐女子」というような構図の話題が現れては消え、現れては消えていく。これ以外にも「暁の腐女子」みたいな分類もあるらしい。

その話題が出現するたびに、タイムライン上に並み居るアカウントたちは、自己の妄想の方向性を手際よく分析し、次々と自己を表明していく。時々「〇〇さんは光の腐女子だと思ってました~」だとか、「▲▲さんは創作は闇の腐女子だけど思考は光の腐女子」とかいう、他人による他人の他己分析を見ることもある。ツイッターのアンケート機能でなん、かアンケート取ってる奴もいる。

いいな!!!!!!!!!!!!!!!!私も自己分析したい!!!!!!!!!!!!!!自分を定型文に落とし込んで安心したい!!!!!!!!!!!!!!そうやって定型に落とし込む過程で、他人にわたしの創作傾向とか分析してもらいたい!!!!!!!!!!!!!友だちがいない。


光の腐女子なんだか闇の腐女子なんだかの一つの境界線としてよく知られているのが、「妄想の中で最終的に、その二人をどういうエンディングに持っていくか」だ。「腐女子属性診断テスト」なるものがあれば、多分最初にこの質問をされるだろう。「Q1、あなたはハッピーエンド、バッドエンド、どちらにグッとくる?」である。

私はこの時点で、分類不能に陥る。そもそも「幸福」か否かを定めるのは主観であって、主観の位置によってハッピーかそうではないかは変化するのでは? 見方によって変化する問いは不適切だ。「質問を変えよう。」と、内なる私Aが言う。

「じゃああなた、自分の創作でキャラクターを「幸福」にしたいと思っている?」

内なる私Bはそれに答えて、「幸福であってくれれば、この上ないけれど」と前置きをした上で、「別に幸せになってほしいわけじゃない」と言い出した。

 

話は変わるが、ツイッターで生きていると、光の腐女子闇の腐女子論議よりは少ない頻度で、「好きになるキャラクターの傾向」というような話題が時々、墓の下から蘇るようにやってくる*1

黒髪とか金髪とか短髪とか長髪とか、生き様とか死にざまとかポジション(主人公、主人公のライバル、主人公の親友、ヒール、など)とか、なんか様々な性癖をもって、腐女子*2が、色々な自己のアイデンティティを表明してくれる。うらやましい。私も自己の性癖の傾向を明らかにして、新たなジャンルへの傾向と対策にしたい。

私も自己分析を開始するために、歴代のドツボにはまったカップリングを並べてみるが、外見的特徴の共通点がマジで見当たらない。好きになるキャラクターの外見に、一貫性がないのだ。ゴリラ体系だったりモヤシだったりする。

というか、おそらく私は、二次元キャラクターの外見に興味がなければ、大した拘りもない。最近ヒプノシスマイクの弁護士を見て初めて、「顔が良いと思う」という感想が出た。我ながら驚いた。「顔が良い」という形容を、私はこれまで自分の飼っているハムスターにしか向けていなかった。あいつはマジで顔がいい。すごい なんというかこう、顔のオーラというか、透明感? が、違う。

 

 

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これは顔が良いハムスター

 

そもそも自分の傾向を考えてみると、私は「キャラクター」というより「カップリング」に先にはまり込んでいる気がする。じゃあそもそもお前、どういうカップリングが好きなんだ?

自分が好むカップリングの傾向を考える。フジョシは自己の関係性への傾倒も上手に分析して言葉にし、自己主張してくれる。自己の傾向どうしてああも的確に把握できるのか? 私の疑問なんて本当に知る由もないフジョシAは、「私はこれが好きです」と簡潔な言葉で明言してくれる。同じように的確に自己の性癖を把握している腐女子Bが「〇〇さんもですか!?」とリプライを送る。そのうちその人らがサークル参加後に飲み会をしたりスカイプでチャットをしたりして、ツイッター上で以前程観測されなくなる。ツイッター社交の世界である。そう! このSNS時代において他者と交わるには、まず自己の傾向を把握することが不可欠だ。自己分析が大事。5000円超を支払って占い師を困惑させる自我ふわふわスフレ状態でそんな偉業を成しえるはずがない。

ところで、カップリングの傾向にも、兄弟とか弟兄とか師弟とか弟師とかライバルとか何とか、色々あるんですけど、これまで私が二次創作に手を出す程ハマったカップリングを自分自身で並べてみても、いまひとつ共通点が見えない。ここでサカナクションが踊り始める。アイデンティティがない、生まれない、どうして?

 

かくしてカップリングから掘り下げる方向性は、サカナクションの登場により行き詰った。ここで創作スタンスに戻る。これはあくまで私の場合だが、「二次創作をするに至ったキャラクターの要素」以上に、「やってしまった二次創作が目指している傾向」を見た方が、まだ共通点が多い気がしたからだ。

 

「別に幸せになってほしいわけじゃない」

冒頭で内なる私Bが出した回答。おそらくこれが、私の二次創作の傾向で違いはないだろう。

そしてこの時点で、既に多くのアカウントとたもとを分かっている気がしなくもない。私が観測している多くの二次創作者は、「いかにキャラクターを「自分の考える幸福」の状態に持っていくか」に煩悶していることが多く、それから外れる妄想をしてしまう「自分」を叱咤しながら、それに興奮しているようなツイートをしているさまを度々観測したからだ。私にはおそらく、その「良心の呵責」フェーズが無いとまでは言わないが、タイムラインで私が観測したその他のフジョシと比較すると、それが短い、もしくは薄い。

かといって、キャラクターが辛い状態であることに、何らかのカタルシスやフェティッシュを感じるわけではない。辛い状態は可哀想だと思うし、そうあるべきではないと考える。

 

じゃあお前の好みは何なのか?と、突き詰めるようにして考えていくと、おそらくそれは「闘争」にあるのだろうなと、わりと年単位でこの創作スタンスだの自分のハマる傾向だの性癖だのについて考えてきて、ようやく最近、そう思うようになりました。

わたしは、キャラクターとキャラクターを便宜上カップリングにした上、その枠組みのなかでキャラクター同士が、自己の権利のために争うその瞬間に、大変なカタルシスを覚える。

なので、別にカップリングに幸せになってほしいわけではない。カップリングが幸せになっているものもそれはそれとして見るが、カップリングにしてキャラクターを「闘争」させるより、そもそも人間関係の成り立ちからして「闘争」の要素を含んでいるキャラクター同士の関係性を好む傾向があるので、恋愛然としたカップリングの作品なんかは、その創作者が原作で明示された「闘争」を、どのように克服しているかという点に主眼を置いて閲覧することが多い。

しかし、「ケンカップル」が好きなわけではない。「公式ライバル」とか「競い合う仲間」とか、そういうものではないのだ。

では、私が好む「闘争」とは何か。言うなれば、こう、「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」という共通テーマを、わたしはまとめて「闘争」という単語に置き換えていた。

 

「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」とはどういうことか?

ここで具体例として、弱虫ペダルの御堂筋翔くんと石垣光太郎くんの関係性(~箱根インハイ三日目まで)をあげさせていただきます。突然オタクの早口になった。これまでもオタクの早口なんですけど、ここから俄然フジョシの耐えがたい早口にトーンアップしている。

経緯は色々とあるんですが、新一年生の御堂筋くんは、持ちかけたタイマンのレースで最高学年の主将である石垣くんを下し、石垣くんから京都伏見高等学校自転車競技部の操縦権と、エースナンバーを奪います。石垣くんにとって御堂筋くんは、文字通り突如現れた異物。しかし異様に早い。自分よりもはるかに、そして、明らかに実力がある。彼はこの異物を渋々承服し、チームの勝利のために、新一年生にかしづくことを選びます。ここで描かれる異物への葛藤と受容の試み、異物からの反撃、当然覚えるような反感を飲み下す理性など、人間関係における「闘争」が好き。いや、ほんと他にも色々あるんですけど、原作でこれと明示されている中で、最も説明しやすいのがここだ。

人生に現れたこの承服しがたい、しかしそれと同時に逃れがたい異物に困惑する、憤る、抗う、諦める、克服する、足元を掬われる、さまざまな形でこの異物に「折り合いをつけていく」という過程に、わたしは恐ろしく興奮する。ここが、フジョシ用語における「性癖」であると思われる。

キャラクター同士の人間関係にハマるときも、私の場合、おそらくこの「闘争」の好みが影響してくる。先述の御堂筋くんと石垣くんのように、原作で「闘争」への可能性が明示されているキャラクターの間に発生しうるさまざまな関係性を好んで見る。

「闘争」が起こる必要があるので、互いにとっての互いの存在、あるいは、どちらか片方にとっての相手の存在は、少なからず理不尽である必要がある。それがあまりに魅力的だと、闘争が起こらないからだ。

同時に互いに、あるいは片方は相手に対して、強く執着しているとより良い。「逃れがたい異物」でなければ、闘争よりも逃走の方がより自然だろうと考えられるからだ。この執着は、必ずしも恋慕である必要はない。だが別に恋慕であっても構わない。何であれ、個人へ強く執着しているというのは、逃れがたいという条件を作る上で好都合だ。

上述した「執着」という闘争の発生条件、近年「クソデカ感情」というレッテルに収斂される傾向のある人間関係ですが、それによって引き起こされる「闘争」のあるキャラクター同士の関係性が好き。理不尽な異物から逃れがたければ逃れがたいほど、時に何らかの犠牲を払ってでも「折り合いをつけ」なければいけないからだ。

この性癖の傾向が、私の中で一番強く出たカップリングが、FGO二部二章の主従関係。逃れがたい執着にどのようにケリをつけるか。このテーマがものすごく好き。

 

ただ、私が志向するのはあくまでこの「闘争」なので、同じようなカップリングにはまったフジョシ(人間関係オタク)との間に、わりと巨大な乖離がある。フジョシのツイートの中でよくみられる煩悶の種である「幸福」を、私は最初から志向しないからだ。キャラクターの幸福を志向するなら、この二人の人間関係を使って思考をしない方がいいとさえ思っていることがある。べつに二人の恋愛が成就してほしいとも思っていない。この人間関係が恋愛の状態にあるかどうかも頓着がない(恋愛であればそれはそれで見る)。

「闘争」の過程とその結果、お互いの存在にどう折り合いをつけていくかという出された結論が何であれ好きなので、それがハッピーエンドかバッドエンドかに拘りがない。

そもそもハッピーエンド/バッドエンドとは何か。誰の目線によるものか? 基準として極めて曖昧では? 一人は心底幸せだと思っていたとして、もう一人が不本意に感じていた場合はどうなるんだ。そもそもハッピーエンド/バッドエンドの二元論で物語のエンディングを捉え得るのか? そんな ことを 言って いると 友達ができないです。

しかもこうやって自分をカテゴライズしたところで、ここに分類できる人格は今のところ私のものだけだ。これは血液型占いで私A型! O型~~~~ってやってる中で、クワガタとか言ってる奴と同じである。規定の枠の中で自己のアイデンティティを表明するから、ああいう会話が成立するのだ。

 

わたし人間関係オタク、「人生に現れた承服しがたい異物をいかにやりすごすか」(「闘争」)というテーマが好き。

 

 


蜘蛛の糸 by 筋少

*1:管見の限り、メインジャンルを変えた直後のオタクや、ジャンルにはまりたてのオタクがこれに言及することが多い

*2:ここでは「カップリングオタク」と呼称した方がフラットかつ正確であると考える。好きになるキャラクターの傾向を自己分析するオタクは、必ずしも男性同性愛のみを偏愛する狭義の「腐女子」に限らないからだ。

骨の重さを測ったことがある

 

骨の重さを測ったことがある。

 

事の発端はだいぶ前なんですけど、2014年の9月、台北を旅行したときに、行天宮周辺で道端にテーブルを広げて、紫色だったか何だったかの重々しいクロスを掛けて、いかにも占い然としたその上に、白文鳥の入った鳥籠を置いていた男性がいた。おじさんなんだかおじいさんなんだかといったところの年の人だ。九份へのパッケージツアーの解散場所のホテルで魯肉飯を食べてから、何でだったか徒歩で行天宮へ向かう途中の道すがらだった。

当時の私は文鳥を飼っており、文鳥占いの存在を知っていた。躾けられた文鳥が札を引いてくれるのだ。絶対可愛いのでぜひみたいと思ったが、言葉が通じないだろうと思ってその場では諦めた。

しかし9月の台湾、よく考えるとめちゃめちゃ暑かった気がする。何であのおっさんは野外の、それも道端にテーブルを出していたのか? アーケードの内側ではなく思いっきり歩道、背後のなんだか洒落た低い柵のような都市型ガードレールの向こう側は、片側二車線の車道だった。なんだったんだあれ、幻?

 

2019年の8月にまた台湾を旅行したときに、そのことを思い出した。思い立って私は行天宮に行ってみたが、流しの文鳥占い師はいなかった。なので持っていたポケットWi-Fiを駆使して「文鳥占い 台湾」で検索したところ、龍山寺地下街でできるらしい。

 

akahel.com

 

tabizine.jp

 

行った。

MRT龍山寺駅直通、時刻は18時を回っておりなんだか閑散とした地下街を歩いていくと、その一角にプリクラの機械みたいにちょっとした小部屋が集住する占いエリアが現れた。エリアの前で壮年の女性が客引きをしている。だれだったか日本の芸能人も、ここで度々見ていくんだというような話を日本語でしていた。

そこで文鳥占いをしてくれと頼んだところ、「通常の占い」にオプションで文鳥占いをつけることができるという。正直私は文鳥が札を引いているところさえ見れればよかったんだが、文鳥占いだけにしてくれと二三度頼んだところ、通常の占いに文鳥占いを無料でつけて、さらに通常の占いを学生価格ということで半額にしてやると言われた。言葉の往復でなんだか交渉に疲れてきた私は、結局その値段で了承した。

ここで一つ目の反省点、自己の意思を固く持っていない。お前はそもそも占いというよりは文鳥を見に来たはずだ。文鳥占いだけでいいとゴネていれば未来は変わったのではないか?

値引き後の料金は1500台湾ドル、でもよく考えるとそれって、日本円にして5000円超で、学生の身分ではけっこうな大金だ。わたしは「2000円で文鳥占いをしてもらった」というインターネット記事を頼りに龍山寺地下街にたどり着いたんですが、後から考えるにつけて本当、その通常の占いというのが、単価が高い商品だったんだろう。しかし粘れば文鳥占いだけで行けたのでは? 人間の押しに弱すぎ、根性を持ってくれ。

 

ともかく客引きの女性に先導されて入った小部屋で暫く待つと、先生が現れた。彼女は何年か日本で仕事をしていたらしい。流暢な日本語でこの紙に氏名と生年月日、生まれた時刻を記載しろと指示をする。何でもその氏名と生年月日、生まれた時間さえわかれば、自分以外の人間の運勢を追加料金なしで見ることもできるらしい。先生は、意中の異性や仲のいい友人、あるいはなんか気に食わない奴との相性占いもできると言っていた。任意の他人の情報を記入する欄は五人分か六人分あった。結構多いなと思った。

私は自分の生まれた時刻を把握していない。私は生まれた側なので把握しようがないと思うんだが、先生はしきりに「午前か午後かもわからないか」と尋ねてくる。私がわからないと三度答えると、先生は渋々といった様子で、数字をデスクトップパソコンに入力し始めた。

 

やがて情報を入力し終えた先生から、何か特に聞きたいこと、気になることはあるかと聞かれたので、就職したらうまくやっていけるかだとか、あとは一生独り身かどうかという漠然とした将来の不安を聞く。

ここが二つ目の反省点。占いってあんまやったことないんですけど、おそらく、将来の漠然とした不安を吐露する場所ではないのでは?占いって言うのはこう、差し迫った問題や自己の希望をある程度自己分析した上で、こうしたいと思っているが、運勢としてはどんな感じかというアドバイスを貰いに来る場所なんじゃないか。

漠然とした将来の不安を持ち込まれた先生は、数字から導き出されたデータをもとに「何も心配はない」と元気づけてくれた。そらそうだ、5000円超の価格で買った時間だが、こうなってしまうとアドバイスもクソもなく、人並みに元気づけるしかない。私は漠然とした不安を吐露しただけであり、目前の差し迫った問題や希望を抱えていない。自己分析がなっていないのだ。面接で言うのならば「この業界を志望した理由は?」に、「安定感があると思って……」ぐらいの返答であり、「今日は寒いね」という世間話のトリガーへ、「そうだね」と漠然と返すようなものだ。

「私、どうすればいいでしょうか」って、そんな顔を見合わせて五分程度の、質問をしても短文で「とくにないです……」と答えてくる人間に言えることなんて、よっぽど限られている。これを求められる職能は占い師ではなく、超能力者であったり宗教家であったりするのでは? トリックで見た! 

ぼんやりとした不安を抱え、他人とサシで向かい合う時にしがちな反射的な愛想笑いで口角をひくつかせる私に向かい、先生は「何も心配することはない」と重ねて言った。氏名を何らかの法則で数字化し、生年月日となんとかした数をもとに先生は続ける。

「あなたの人生は16歳まではあんまりよくない、でもそれより後は何も心配することはない。とってもいい 大丈夫」

でも、と話を切って先生は続けた。

「他人の意見を聞きすぎるところがある、自分を持つことが大事」

あとは事故に気を付けろと続けてから、先生はラッキーカラー等々開運に必要な事項を述べ始めた。それを私がボケーっと口を半開きにして聞いていると「メモ取らなくていいの?」とやや威圧されたため、私は慌ててメモを取り始める。そうして先生は、私のラッキーカラーが白と黒だという。私はメモに白黒無常と書いた。ラッキーハンターでしょうかとその時は思ったが、後にホテルのWi-Fiでランダムマッチを試み回線落ちをした。

あとは何か聞きたいことはないかとしきりに言われる。私は一生独り身でしょうかと聞くと、「そんなことはない」と先生は力強く言った。

「子供が二人生まれる。」

マジか。

「女の子ね」

そうなんですか。

「身なりを綺麗にして、他人への関心を持ちなさい。そうすれば何にも心配いらない。」

「化粧は大事、化粧をしなさい。」

ここはぼんやりとした不安を持ち込む場所ではなく、自分が定めた行動指針が天命に背いたものではないかを答え合わせする場所であって、こういうふわふわスフレ自我で来られると、先生も一般論を返すしかないのでは? 一般論の「一般」とは母数が多い集団を指し、母数が多いということは、他人から受け入れられやすいということで、それは一つの「正しさ」でもある。というか、さっきから異性愛を前提に話されているなということをこの辺りで考え始める。同性関係の話を持ち込まれた場合は、そういう風に対処するのだろうか。

 

占いマニュアルに思いをはせ始め、「他にない?」という先生の質問を、二度「ないですねぇ……」で誤魔化したところで、ようやく文鳥が現れた。間仕切りのある竹籠に入った、二羽のふくふくとした白文鳥だった。可愛い。

先生は鳥籠の入り口の前にカードのぎっしり詰まった箱を置くと、鳥籠を開けて、彼らに生米を一粒ずつ食べさせた。非常に可愛い。

やがて先生の指から米粒を食べた間仕切りの右側にいる文鳥は、ちょこんと入り口に降りてくると、カードボックスの上をちょこちょこと跳ねて、三枚程カードを引く。左側の文鳥は米粒を食べたあとちょこんと入り口におり、羽繕いを始めた。ボイコットするものもいるようだが、先生は分け隔てなく米を与えた。可愛い、目の前に来てくれて非常にありがとう。(ここで写真を載せようと思い立ちクラウドを覗いてみるが、なんか威嚇されてるのしかなかった)

文鳥が三枚カードを引き終わると、先生は文鳥にまた米を与えて籠に戻し、文鳥が引いたカードを表にする。先生はその三枚の、かるたの取り札か百人一首かのような絵柄をしたカードを私に見せながら、絵柄を説明した上で、私が気を付けるべき事項を説明する。

「人の話を聞かずに突っ走ることがある」

「助言は程々に聞いた方が良い」

さっきなんか似たような話を聞いたなと思ったが、臨機応変にということだろう。

料金の1500元を支払った私は完全なオケラ、このあと龍山駅から台北駅に戻る道中で手持ちの小銭を使い切り、旅程をあと二日残しながらに、キャッシュレスを擬人化した存在となる。

 

その後、特に文鳥占いとは関係のない経緯から島尾伸三の『香港市民生活見聞』(新潮文庫)を読んだんだが、169-171頁の「秤骨歌」を見たとき、強い既視感を覚えた。

島尾によると「人は生まれながらにして成人した時の骨の重さが決まっていて、この重さがその人の富貴貧賤を決めているというのです」とのことで、後に筆者は自らを例にとり、生年月日と生まれた時刻の計算法を明示する。

この部分を読んでから、あ、そうか、あの時の私は骨の重さを測られていて、だから生まれた時刻を、ああも執拗に聞かれたのだと、ひどく納得しながら、それと知らずに骨を測ることになった、あのやや煤けた占いブースのことを思い出した。

そういえばあの時、例の診断結果を三つ折りにして拝領していた。作業中ずっと机の上に置きっぱなしで、しきりに視界の端にちらついていたが捨てるほどでもなく放置し続けていたピンクの紙がきっとそれだろうと思い込んで私、今さっきそれを、紙束から引っ張り出して開いたんですけど、開いてみてびっくり、台湾の銀行で両替した時のレシートだった。

じゃああの可愛い文鳥の名刺はないか、あれがあるところにきっと一緒にしておいてあるんじゃないか、名刺はどこにやったかと思い立ってみるが、生活とともに荒れ果てた部屋を眺めていたら、その気も萎えた。過去に飼っていた文鳥は季節の変わり目に死んでしまって、今はハムスターが、ガサガサと新聞紙を掘る音がする。

 

というわけで今年の抱負は身辺整理を進め、室内に打ち捨てられている謎の物品を捨てること、そして占い師の前で自我ふわふわスフレな返答をして5000円超をドブに捨てないよう、自己分析をしっかりと行うことです。欲を言えば客引きに対して毅然とした態度で要求を突きつける度胸もほしいが、とにかく私にはぜひ、目的意識と問題意識を持って、自我ふわふわスフレで興味のまま、糸の切れた凧じみた挙動をせず、自分の人生に挑んでほしい。

近況としては修士論文を提出し終えて、同期の一人は締め切り前の焦燥感に苛まれ続け、一人はかろうじて顔だけ知っている分野外の教授への妄執を、憑き物が取れるように落とした。

プレッシャーと年末を楽しく過ごす人間らの生活を見て勝手に苦しんだ経験から、渡すにも知らず知らずのうちに、アイデンティティの一部に論文が付与されてしまっていたようで、自分が何に熱を入れあげていたか、何をするべきなのかを忘れたままわたし、財布も買い換えないままでぼんやりと、あの産み落とした修論が、占いで言われた女の子なんだろうかというようなことを、考えている。思考の足を地につけて生きてくれ。頼む。

 

 

香港市民生活見聞 (新潮文庫)

香港市民生活見聞 (新潮文庫)

  • 作者:島尾 伸三
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1984/12
  • メディア: 文庫
 

 

 

今週のお題「2020年の抱負」