メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

メーデー! とも令和とも特に関わりがない映画『テルマ』について

 

別に節目でも何でもないが、タイトル回収回である。

しかしアレですね、三月四月のブログ更新率を見るにつけ、お前!ブログしてねぇで自己PR文書けよ!!書けよ!!!何してるんだよ!!!!!アッハッハッハッハッ!!!!!!!(履歴書の最後の一字でミスをした私feat.おひさまの国のお城で孤独に佇む黒化ブライト様)

 

このブログのタイトルは、五月一日に世界各地で行われる祭典に因んだものではない*1

メーデーさんに因んだものである。

本名はスキャグデッド。『バイオハザード リベレーションズ』に登場するクリーチャーだ。

メーデーさんというこの呼称は、作中初出のスキャグデッドの台詞(台詞?)メーデーメーデー…こちらクイーン・ゼノビア、救難信号…メエェェェデエェェェ」から来てるので、正確に言うとメーデー(遭難信号)から派生したメーデーさんに由来する、つまるところ孫引きのようなものなんですけど、ええんかそれは。

なので、五月一日はわりとただの日付である。なお今年は改元イベントのあった日付でもあり、寝て起きたら平成が令和になっていたが、日常で和暦に余り接さないので、大した感慨もない。

というか、新年カウントダウンの如く盛り上がっている人間を見て、逆に冷めたクチだった。お前、ほんと、そういうところだと思うぞ。踊るアホを見るアホがどうのこうのって、言うじゃん。節目を意識することで、日常の生活にメリハリが生まれるんじゃん。

しかしなんか、回顧をすることによって「平成は良い時代だった」「ありがとう平成」「次来る時代も穏やかな良い時代でありますように」「ようこそ令和」というテンションに引っかかりがあるというか、良い時代でしたか、平成。総括の場で「何ら良いこともない、悪くなるばっかりのクソみたいな時代だった」と言ってもしょうもないので、何かいい感じに締めとこうという所は、わかる。「悲観的」に見ても仕方がないというのも、わかる。しかし、兎に角終わり!閉店セールだ!と言わんばかりのお祭り騒ぎを見るにつけ、パンとサーカスジョージ・オーウェル!と、つまるところ、勝手に興奮する性癖なんですね、善悪の判断は置くとして、現象として面白いですよね。

 

メーデーであり、令和の初日であり、しかし労働してないし、和暦にそんなに関わってないので、どちらとも大して関係なし、それどころか、どっちかというと、そんなことしてる場合じゃない身分なんですけど、折角なので、末期の平成において何をしていたか、ここに書き残しておきたいと思います。

 

といっても、特に何もしていなかった。平成最後の昭和の日に大正駅で云々とかいうのが夕方のニュースで流れたりもしましたが、あんな感じで、最後の日に何して過ごす? みたいな発想が、まるでなかった。

履歴書を書き、誤字をし、ゴミと化した履歴書を丸め、捨てる。やる気を失い、漠然とネットサーフィンに繰り出す。ふと思い出してダウンロードしていた論文に目を通す。語句を調べようとしてタイムライン警備を始める。きっとこんな風に、最期の日を迎えるんだと思う。予定の無い日を緩慢に過ごしてしまいがち、流しそうめんみたいに若き日の人生を流している訳ですが、平成最後の日には運よく、見たかった映画のタイトルを思い出していたので、映画を見た。

 


映画『テルマ』予告編

 

テルマ』である。

2018年の末頃、ツイッターで繰り返し複数のアカウントからリコメンドされているのを見たのだ。年末に見ようと思って結局見なかった映画なので、じゃあこの末に見るかなと思い立ちました。前情報としてはホラーサスペンス百合超能力ぐらいだったんですけど、実際見た感想としては陰鬱陰鬱百合超能力(?)といったところでした。

舞台はノルウェー、寒村にて厳格なキリスト教徒の両親に育てられた少女・テルマは、大学進学を機に都会・オスロで一人暮らしを始める。そこで出会った少女との「禁じられた」初恋を契機に、彼女の内なる力が目覚めてしまい……といった感じのあらすじなんですが、一通り見てからあらすじを見ると、何となくミスリードを感じるので、陰鬱な北欧が好きな人は、以下の文章を見る前にご自分でご視聴された方が、多分楽しいです。

 

doga.hikakujoho.com

 

UNEXTでは見放題の範疇に入っていなかった(580円でレンタル可能)んですが、一ヵ月無料体験時に付与される1000ポイントで無料レンタル出来ました。

 

 

で、私の感想なんですが、はっきり言ってよくわかってないです。

「いるのですよ、この世には。本物の力を持った霊能力者がね……」*2といった、幕引きを感じた。

陰鬱な画面とか色々あったんですけど、中でも特に観客に情報が開示されていくにつれ、登場人物への見方が結構大きく変わったのは、凄い面白いところだなと思いました。他人の感想を見てる時に蛇蝎の如く悪し様に言われがちだった父、私も冒頭何だこのハゲぐらいのお気持ちあったんですけど、父、父……私の中で最も大きな印象変化があったのは父でした。作中においても旧弊な価値観の権化として描かれているのは間違いないと思うんですけど、「あなたは本当に優しい人よ」という夫婦のシーンに象徴されるように、どうしようもなく一市民でしかない彼は、娘の力を前にして圧倒的に無力だった。

恐らく彼の父(祖父)も同じことを彼の母(祖母)にしており、抑圧の末に自分の身に危険が迫ることを分かっていたと思います。自分の父の末路を知りながら、(そのように育てたのだから当然なんですが)自分たちに救いを求めてきた娘テルマに対し「必ず助ける」と言う、その横顔の影に見える悲壮。父~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!

昨今の流行と倫理の更新、そして祖父というフラグの通りほんと、従来の家父長制や権威主義による秩序の行く先は悲惨しかない!といった感じの末期を辿る訳ですが。

 

それにしても、この映画でひとつの価値観が提示されていることはわかるんですが、その内容が一晩寝て考えてみても掴めない。霧島澄子が頭の中で歩き回っている。「流しましょう。私たちの全て……」*3

テルマ』が例えば2000年代初期に制作された映画であったとしたら、父を炎上させた後に、湖の底に向かって泳いでいくテルマ/大学のプールで、在りし日のようにアンニャと再会するテルマ このシーンの後にエンドクレジットが来るか(限りなく死に近い生死不明)、湖畔に打ちあがったテルマの溺死体を映しエンディングにしていたと思う。

しかしこれは2010年代の人権先進エリアで育まれた映画なので、矢張り殺しはしなかった。衝撃的な終焉を迎え、マイナスの状況下の中で、「それでも生きていく/生きていかねばならない」というテイストの映画、最近割と多いように思うんですが(割と多いとかいって、私そもそも、そんなに映画を見る習慣がないのでこのパターンに該当する映画として、『シン・ゴジラ』とかしか浮かばない。)、歴史は終焉に向かわず統合の夢は潰えた現代史という話が好きな私はめちゃめちゃに性癖。時代が追い付いて来たなっていう感じがします。(何?)

話をそれでも生きていくテルマに戻します。

湖畔で幸福な夢のまま死ねなかったテルマが吐き出した小鳥の死体。キリスト教的な象徴だと思うんですが、そこは不勉強なので現時点ではスルーします。

その後のテルマの行動と、その状況をどのように解釈するかによって、この映画における主題が、大きく変化するように思う。

 

個人的な見解として、「力」をあってはならないものとして抑圧するのではなく、それも「私」であると受容することによって、テルマは力をコントロールすることが出来るようになった(母の脚の治癒)、というのは、以下に述べる二つの解釈のどちらにも共通するように思う。この映画の中で示される主題の一つは、自らを抑圧するのではなく、受容せよ(さもなくば未来はない)といったものでしょう。

以上のテーマが共通のものであるとしたうえで、以下が問題のラストシーンなんですが、

 

治癒した母親の制止を振り切り、実家を後にするテルマ。場面は切り替わってラストシーン、大学構内に戻ったテルマは、首筋にアンニャの口づけを受けることを夢想する。するとその後に続いて、後ろからやって来たアンニャにより、首筋に口づけを受ける。微笑み合う二人。台詞はうろ覚えなんですけど、「その服似合ってるわ」(アンニャはこれまでパンク系のファッションを着ていることが多かったが、ここでは白いシャツにスカートといった素朴な装い)「あなたも、私の上着がよく似合ってる」(テルマは物語中盤までのアンニャが着ていた確か黒い革ジャンを着ている。パンツスタイルだ) 大学構内を歩く二人。ここで暗転、エンドクレジット。

 

ここで個人的な争点になるのは、アンニャの自由意志である。

物語の中盤、テルマを救おうと彼女の力を抑圧する父との問答の中で「彼女を愛していた」「彼女は愛していなかった」「お前には誰かが必要だったんだ」「お前がそのようにあれと願った、だから彼女には選択肢がなかった」というのがあるんですが、アンニャからテルマへの恋愛的アプロ―チが、テルマの願いによるものであるか。ここが争点。

物語序盤から、割とアンニャは積極的にアプローチしてくる。テルマが願いを自覚する以前からアンニャがアプローチをしていたのならば(またはテルマの力はテレポーテーションやテレキネシスに限り、人間の精神に感応するヒプノシスな力はないとすると)、アンニャのテルマへの恋慕は自由意志ということになり、エンディングにおける去っていく二人は、抑圧を越え自身を許容/受容したことによる、妥当なハッピーエンドとして見ることが出来ると考える。


しかしアンニャの恋慕が、テルマの願いによるものであった場合を考えると、どうなるか。

前述の通り、テルマの超能力はテレポーテーションとか物質の移動とか少なくともそういう物理に働きかけるものがメインであるという描き方をされていると思いますが、ここでは、彼女の能力が人間の精神の操作を可能にするものだった場合、あのエンディングシーンを、どのようなものと解釈できるのか。

父の言う通り、「テルマは孤独で、誰かが欲しかった」というのを前提に、たまたま横に座っていたアンニャに白羽の矢が立った。或いは、アンニャは元々テルマに関心を持っていたが、それを恋慕に変質させたのは「アンニャと親しくなりたい」というテルマの願いであったと考えた場合(テルマのアンニャへの執着は、作中前半において描かれている)、

二人で手に手を取って去っていくあのエンディングはつまるところ、作中マリファナと言われ煙草を吸わされてトリップしたテルマによる自慰行為のシーンがあるんですけど、あれと同様、あのエンディングは、テルマの自慰に過ぎないのではないか。

テルマが首筋への接吻を夢想するイメージが明確に描かれていることから、私は個人的に後者の説を意識してあのエンディングが撮られた可能性が高いんじゃなかろうかと思っている。

「全身全霊を掛けて願えばお前の力が叶えてしまう」と父に言わしめたような超能力を持つテルマは、父殺しにより抑圧を逃れ自由を得ることで、自らの力をコントロールすることが出来るようになった。彼女の力によって崩壊した家庭で「行かないで」と縋る母を背に、彼女は都市へ出ていく。自らの力によってコントロールされているアンニャの手を取り、力を持ったテルマは、しかし、孤独だ。以前の価値観の象徴である家に戻ることも出来ないし、側にいるアンニャは彼女の自由意志ではなく、力により操作されている。

その孤独の中で、それでも生きていかなければいけないというのは、こう、極めて今っぽいテーマだなと思うと共に、ツァラトゥストラはかく語りき!って感じで、私はそういう話好きなので、テンションが上がる。神は死んだ。絶対者のいなくなった世界で、超人にならねばならない!

 

ところで物語中盤、オスロ・オペラハウスが出てくるシーンがあるんですけど、実際行ったことがある/記憶がある場所が映像として出てきて、なんだかよりテンションが上がった。あっ!このオペラハウス行ったことある! 勧められるがまま、ここの屋根に上って、雪で滑って、斜面で尻打って、成人にして、新たに蒙古斑を作りました。2018年ベスト痛い打ち身イヤー。昔取った杵柄! って感じで、ささやかに受け身を取った形跡もあったんですけど、何よりも先に派手に尻もちをついて、暫く起き上がれず雪の上に蹲っていたら、困惑顔の女性数名が手を差し伸べてくれました。優しい世界。

 

www.visitnorway.asia

 

オスロ・オペラハウスは、オスロ中央駅の南側から出ると徒歩五分というか、目と鼻の先に見える。

私は12月オスロで雪を漕ぎながらだったので、五分かそこらぐらいの印象を得ましたが、夏だったらもっとサクっと行ける距離にあると思います。

 

テルマ』の作中では、都会の象徴として描かれるオスロなんですが、私の感覚からいくと、流石に首都という風格はあるんですけど、かなり小規模な都市だった。

どれぐらいかというと、ナットシェルでたまたま一緒になった中国人グループと、そこらの道端で再会するぐらい小規模。駅前から王宮までを繋ぐカールヨハン通り、片側一車線もなさそう。いやそこの道で車移動が想定されていないとか、馬車道とか、色々あるんですけど、印象としては、小規模な街です。

夏に行けばまた、ダイナミックにフェリーに乗って島の方にあるヴァイキング船博物館とか行って、印象変わるんじゃないかと思うんですけど、どうにもこぢんまりとした感じ。

これまで北欧の都市は、片手で数えることが出来る程の回数行きはしたんですけど、その度にこう、オスロに見た印象と類似の、「管理できる小規模」という雰囲気を見ている。

日本語圏のツイッターで、選挙シーズンとかに、選挙カーを否定する文脈で「北欧の都市では演説の為に市民にドーナツとコーヒーを支給して、集まって来た奴に話を聞いてもらうんだぞ」というツイートをどっかで見たんですけど、首都であの小規模なら、そら、北欧では出来るのかもしれないが……といった印象になる。

無論、人権意識とか諸々で北欧は先進地域だろう。しかし北欧で実施できているあらゆる事柄というのは、「先進的な思想の枠組み」は勿論、同時に、「小規模感」によって実施できているという側面も、少なからず大きいのではないかと思う。

文明の発達した今でこそ、おしゃれスタイル北欧とか何とか出てきますけど、元々自然環境が恐ろしく厳しい土地だ。というか、おしゃれとか銀行とか、付加価値を売りにしているところは、基本的に土地が貧しい。すなわち粗方掘り返し尽くした「現代」に利用可能な価値観の先進と言い換えることが出来るので、北欧がフィーチャリングされる流れは全く正鵠を射ているというのもあるし、前提条件が全く異なるところからも、勿論学ぶべきところはあると思うんですけど、ここには無いほっこり幸福なイメージを、北欧に求めるのは、何かズレているんじゃないだろうか。しかし、そもそもイメージビジネスなんだから、実態がどうであれイメージが売れれば、それはそれで正しいんじゃないのか。そもそもほっこりヒュッゲ♥にやたらと引っかかりを覚えるお前が、単に陰鬱な景色が好きなだけじゃない? ハマスホイとか。というか、ノルウェーにおけるヒュッゲ概念が存在するのかどうかはわからないんですけど、そもそもヒュッゲって大切な人と一緒に過ごす時間♥の概念じゃないですか(主観)。後者のアンニャに自由意志は存在しない、テルマの「力」にはヒプノシスマイクが含まれているという解釈で行くと、テルマはそういうの、手にしてないんですよ。

能力を抑圧する鎖/家庭という場を破壊することによって、自由を得たテルマは、自分の願いによって変質したアンニャの手を取ることが最早自慰行為でしかないにせよ、それでも、生きていく。

父と類似の悲壮がここにあり、赤い煉瓦の並ぶ陰鬱寄りの街並みがそれに影をそえるというか、いやしかし、人間は見たいものしか見ないので、私はそういうものを見たいから、そのように見ているんでしょう。ここが主観の限界、おしまいの地です。

 

 

幸せってなんだっけ? 世界一幸福な国での「ヒュッゲ」な1年

幸せってなんだっけ? 世界一幸福な国での「ヒュッゲ」な1年

 

 

*1:出典: 「メーデー」、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』(最終確認日2019年5月1日)

*2:霧島澄子 『TRICK』(2000年) 第三話「母の死」

*3:霧島澄子 『TRICK』(2000年) 第三話「母の死」