メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

今週のクソ塗れ日記

 

ra927rita1.hatenablog.jp

 

暮らしているだけありがたいんですが、毎日本当に楽しいことがない。空き時間でゲームをすると、総受けオタク丸出しのユーザーネームとマッチする。調理をすれば食料が仕上がり、食の喜びらしいものは感じない。かといって外食に金を使うと、なんだか気づまりになる。自分しか養っていないのに、9月分のガス電気代が凄まじいことになっている。気晴らしにどこか出るにしたって、外出したらどこかしらで金を使うことになるのが目に見えている。そもそも業務時間で何もかも圧迫されている。

 

在宅勤務を許容される職場において、大体家にいるのに疲弊している。ただでさえ業務をしているだけでクソ塗れだというのに、たまにオフィスに勤務すると、お前は難易度の高い業務を取りに行くべきだという説教が始まる。

上長、「今やってもらってるのって中卒レベルの事務作業じゃないですか」と言われますが、大学は職業訓練校ではないということはどうお考えなのか*1。というか、職務の難易度が上がったら、給料お前が出してくれるんですか? という諸々を、上長に言うべきか黙って流しておくべきかずっと考えており、そろそろこの悩む時間も腹立たしいので、ボイスレコーダーでも付けて、机の上に置いておくかという心持もある。録音データをコンプライアンス課に持ち込み、私か上長のどちらかを別部署に飛ばして頂く為です。

 

上長の有難いお話を拝聴しつつ、今すぐ辞めてここの業務量パンクさせてやろうか、というような魂胆は常にあるものの、お賃金を頂けないことには暮らしが成り立って行かないので黙しているし、何となればヘラヘラしている。

生きているだけで、定期的に口座へ、賃金に等しい金額が振り込まれてほしい。宝くじを買って、日々事あるごとに祈っている。平日は寝る前に、数年後の自分の有様、つまり、さらに業務量が増え……しかし賃金は端から期待できるものではないので……という悲惨なものを想像し、「寿命まで生きる前提で現状に甘んじる」か「今カスの業務を終わりにし、現状の預金だけで満足に生きられるところまでやる」かを考え始めて、眠れなくなる。

 

そんな中で、最近は72時間無料公開されていた『片喰と黄金』という作品を読み、面白かったなという感想を持った。歴史をテーマにしたエンターテイメント作品という点で、過去の(まだ『片喰と黄金』の存在を知る前の)私に向かって説明するとすれば、「1848年以降北米を舞台とした日本の漫画作品*2。ノリはゴールデンカムイに似ている」という趣旨の説明となります。

最近の楽しいこと、本当にそれぐらい。あと、出張の片手間に文庫本を黙々と読んだ覚えもある。研究を元にした文庫本によくあることと私は思っていますが、前提条件の整理を終えた中盤を越えてようやく面白くなってきたように感じるし、私の側で受容の準備が整った(ので面白く感じる)ということもありましょう。

今もまだ相変わらず二次創作小説をしており、自作を好んでくれたらしいオタクがRT後に「感想良すぎるしか出て来ない」とツイートしてくれたのを見たのは嬉しかったんですが、後日推定同オタクが同じようなジャンル・カップリングのオタクに「FF外から失礼します! こちらのAB作品とてもよくって~~~~(省略)」といったリプライを飛ばしているのを見かけて草燃えた。「そういう場面」を目の当たりにすることが多いのか、或いは「そう言う場面」を見つけ出す才能があるのかもしれない。

 

二次創作をしていることによって他人が承認される場面を、不思議とあまりによく見かける。これは一種の生存バイアスというものであり、「承認されない他人」というのは、コミュニケーションを前提としたプラットフォームでは透明になるので、見掛けるのは必然的に「承認されている他者」となる。

もしも、多種多様な顔文字を使い分けつつオタクと交流するアカウントの運営者に、私の妄執(二次創作小説)を発表してしてもらったら、たぶんだいぶ違うんじゃないか、という夢も見ている。

とはいえ、夢は夢ですし、これについては現実の私が悪い。他人と交流を持ち、どうにか馴染むための努力をしていない。コストを払わない人間に対して何かを支払う人間というのは稀。そもそも、自分が自分の脳の形に特化した二次創作をする(というか、二次創作というのは得てしてそういう、自分のために成されるものと考えている)ので、他人が見てそこまで言葉を尽くす要素はない、というのも考えられる。

が、自省よりも先に、兎に角、他人がされるような承認を受けることは、おそらく今後無いでしょうし、おそらくこれから先、別段楽しいこともなく、業務は重いものを回されていくんだろうけど、生計を守るためにはそれを唯々諾々と飲まなければいけないのか。

それでもまあ、ある程度まとまった金がもらえるというだけマシなんだろう。いずれ死ぬために、辛いことをこうもやり過ごし、趣味らしい趣味もなく、承認される他者を横目に見て……ということを、延々と思っている。

 

これを就寝前に考え始めると眠れなくなるので、今週の日月火は就寝前にダ・ヴィンチ・恐山のゲーム配信を聞き、張り上げられることのない他人の声に、そこに存在する他者の気配のようなものを感じて、和らいだ心地で眠った。

火曜の午後辺りには、ダ・ヴィンチ・恐山に対して異様な好感を持つようになっており、ああいう「無害さ」のある人間を連れ合いにしたいと思いつつ業務をやり過ごしていた。

しかし、それはあくまで相手が「画面の向こうにいる」存在であるからして「無害」なのであり、これが存在として肉薄していればションベンもウンコもするしオナラもする。生理現象なら兎も角、その他共同生活にあたり齟齬が生じることは当然起こるであろう。

無害な人間というものは存在しない。他人への第一印象に「無害」という言葉を使う時点で、往々にして「自分にとって都合がいい」存在として相手を見做しているわけで、Youtubeの配信を見ている分にはその程度の認識でも構いやしないだろう(と私は思う)が、この認識の粒度で「この人間を連れ合いにしたい」というのは如何なものか。

 

結婚をしたいというか、周囲がマッチングアプリや何やらを駆使して「は~い二人組作って~」に対応しているのを見ると、そうした方がいいような気もしてくる。

今日が一番若い今の自分ですら、誰とも喋らないことがざらにあるのだから、これから先もっと体調が悪くなったりして、一人で動けなくなって、誰とも話さずに床のシミになる将来が訪れることを考えるのはあまりに容易で、その時点でQOLが下がる。

そういえば上長も、「まあ〇〇(私)さんは、これから先もしかすると結婚して、そのまま辞めてやろうというキャリアルートを考えているのかもしれないけれど……」という説教をしていた気がしますが、とはいえ、結婚して経済力を相手に握られた母親のあまり愉快ではなさそうな暮らしを見ていた経験を元に考えると、私は架空のパートナーに経済力を期待し職を辞するのは精神衛生上よくないであろうし、そもそも、人脈もクソもない現状、それはおよそ現実的ではない。

 

夜に起こるそういった無益な考え事を、ダ・ヴィンチ・恐山の配信を聞いて気を紛らわしていましたが、ダ・ヴィンチ・恐山は著作やライター業、そして(おそらくは)チャンネルへの出演等によって立派に生計を稼いでいるのだ。自分の能力を生計につなげるというのは、それなりの地獄でもあると理解しますが、やはり素晴らしいことだと思う。

私も、自分が存在しているだけで、或いはそうストレスを感じない業務をこなしつつ、フルタイムで労働をせずに金を稼ぐ道はないものか、と考え始めるが、フルタイムの労働の金払いに及ぶ何かを見いだせない。

生計のための労働、金はあればあるだけ将来への不安は消えると言いますが、じゃあ、いつまで金が掛かり続けるのか。私はいつまで生きるのか。人はいずれ死ぬ! 死ぬ……死によって主観が失われることが何より恐ろしい。思考が脆弱なので死後の世界を信じることも出来なければ、無を受容することもし切れていない。

ここでYoutubeが、これまで再生していたダ・ヴィンチ・恐山のトラック配信から任意の動画へ飛び、「宇宙は永遠ではない」と言い始める。眠る前にYoutubeを見てはいけない。Youtubeには不安が多すぎる。

 


www.youtube.com

 

そこで水曜の夜辺りから、Instagram著作権とか肖像権が存在しないエリアから配信されたようなオモシロ動画を検索し、ウィ~~~↑というふざけた声を伴うとぼけた音楽と共に、ネコがズッキーニにびっくらこいて吹き飛んだり、赤ん坊が急に満面の笑みで母親の顔に向かって吐き戻したりする動画を見ている。

オモシロ動画投稿アカウントにはいくつかあるが、動物や赤ん坊の他愛もないものをネタにしたものよりは、やはり赤の他人が事故で器物を損壊したり、ちょっとした事故が起こっており、これともすれば後遺症が残ったんじゃないか、と思わせる程の、派手な吹っ飛び方をしている人体を見る方が面白い。

おかしなものを笑うという行為は嘲りに近しく、笑いという行為は本質的に攻撃であるとどこかで聞いたような気がするが、どこで聞いたのか思い出せない。

 

無料公開の漫画、ちょっと読んだ本、ダ・ヴィンチ・恐山のゲーム配信、赤の他人が金玉ぶつけてもんどりうっているオモシロ動画。自分の二次妄想を何らかの形にできてから、それが他人同士の賞賛の中で、誰も手を付けない流しそうめんのようにツーっと流れるのを眺めるまでの間の時間。あと最近はアニメや大河ドラマのリアタイをしている。

何らかの「楽しいこと」は時々起こっていて、それが時折痛み止めのような働きをしているんですが、そもそも「生計を立てなければ暮らしていけず、暮らしていくためには労働をしなければいけない」という構図が根幹にある頭痛に、一時的な痛み止めを当てているだけなので、「日々楽しいことを数えて暮らそう」というのは応急処置に過ぎず、これで凌ぎ切れることもあれば凌ぎ切れないこともある。

この構造が悪い。

とはいえこの構造をぶち壊す程の権力を持っていないし、この構造に取り込まれないだけの宛てもない。人間は社会的動物なので、基本的に社会に属して生きるという形態をとるのがおそらく楽だろう、と思う。

それならば、どこまでこの構造を宛てにして生活し、どこでそれを辞めるのか? 取り敢えず金があった方がいいので現状維持の選択を繰り返して、三年ぐらい経過している、と思う。気分転換をするにも本を読む気力がないのでゲームを立ち上げ、わけわからんカップリングをユーザーネームにしたオタクとマッチングしてしまう。

 

 

tree-novel.com

 

*1:一方で、「大卒」である程度の誤魔化しが効くという現状を逆手に取ったキャリア形成をしている以上、あまりその点について突っ込んだことを言うとこちらの利益を損なう

*2:作中の人物が「馴染みのある」ような堀の浅い容姿で描かれている点に、親しみやすさというか、「日本の漫画」の要素が強い作品だな と感じた記憶がある。単純にそう言う絵柄という可能性もあります。