メーデー!

旅行関係の備忘録ほか。情報の正確さは保証致しかねます。

カップリング解釈という名の妄言を他者と共有したいという願望からサークル参加を始めるもコミュ力の破綻ぶりからブロック数を増やし見事ムラハチ者となった同人失格フジョシのレゾンデートル

 

これは同人失格したクソフジョシの妄言エントリーですが

 

自作が最高

 

遡ること四カ月前、2018年の11月24日に私、同人誌を頒布したんですが、そこにキャラクター同士の人間関係について私が五年間懊悩したアレソレを、余すところなくぶち込んだ気がする。

ここからどうしようもないオタクというか単なるクソフジョシの早口なので文章の密度が薄くなるところまで読み飛ばしてほしい(しかしこのブログのエントリーってだいたい全文そういうところあるよね)んですが、私の思想では御堂筋くんは前頭葉を削って走っているので情とか何とかいう不要な感情は発生し得ないんですけど、彼は人間既卒、つまり人間を卒業したいわば「元人間」である点から、何らかの感情のバグが発生する余地は確かに存在する。そのバグについてどのように対処し、乗り越え、かつそれを通して、幼少期に蔑ろにされ続けた経験から生じる人間存在への復讐願望と、発生したバグとの間でいかに折り合いをつけていくかという諸々についての筋道立てた妄言を、ひとつの形で達成した気がする。

私個人の一解釈では、何らかの形で同人誌を出している人間は「妄執」の現れであって、その妄執のファンが応援しようと、アンチが行動を阻害しようと、根幹に影響することは余りないという説があるんですけど、誰であれ自分の中に存在する一定ラインを超えると妄執はやがて昇華され、解を求める欲望は納得し、成仏する。ここでの成仏という言葉は、単に妄執からの解放を単純に言い換えているに過ぎないです。

また、殊に私の場合は界隈に蔓延るというか、そもそも「カップリング」という言葉からやってくる「キャラクター同士の恋愛感情」という宿命に、それにそぐわないキャラクター解釈をする自分の脳の中でどのように折り合いをつけていくか、数年かけて妄執を文章の形でなんとか昇華しながらずっと考えて来たわけで、この情熱を他所に向ければ一角の人物になれていたのではないかと、就職説明会から帰りがてら、説明会の同席者や道行く人が皆立派に見える、例え実が伴って居なくともそのように見せることが出来る時点で、十分有能であり立派に見えるこの頃、そのようなことを考えてぼんやりとしている(そして道行く人が皆立派に見えるというフレーズはどこかの小説で見たものであるような気がするけれど、タイトルが出てこない)んですけど、私の妄言は、カップリングというよりは、肉体関係を伴う人間関係。そこに至るまで長い間考え続けていたんですね。

それで、来たる11月24日。キャラクター解釈にそぐわない恋愛感情と人間関係、解釈の根幹に存在する人間存在への復讐欲求。そしてカップリングと「恋人」「恋愛」「恋」への分かちがたいフジョシ脳の接続に対する、私の一種の復讐としてあの最高の自作がそこに在ったのかもしれない。個人的には、二次創作で個人の思考を載せる程虚しいことはないし、それをすべきではないと考えているんですけど、11月24日頒布の新刊についてというか、その原稿作業をしていた辺りの私にとり、キャラクターの人間関係にまつわる妄想妄言は余りに日常と化していたので、敢えて何の為に書いているのと言われたらば、多分それは復讐でしたね。このメロスは一体何年、どこに向かって激怒しているんだ。

 

それでまぁ、満を持して出た最高の自作なんですが、特に感想というか、第三者による本作に対しての言及はないです。

 

当該同人誌はゾンビ映画を見ながら、「まぁ断られたらそれはそれでいいでしょう!」みたいな空元気で、前々からお願いするならこの神絵師お願いするならこの神絵師と考えていた神絵師にDM送ったら承諾して頂いてしまってわー!ハッピー!!って感じで表紙絵描いて頂いてしまって、もうこれ以上のことは何も望みようがないまでに満ち足りた同人誌なんですけど、ここに来て今まで、私が唯一思っているのは「この本、本当に頒布できているんだろうか?」という疑問。

いや、これは年末頃から延々抱えながら旅行行ったりしてるんですけど、本当に実在してる?この本。一応完売しているので、刷った分だけ捌けているのは間違いないんですけど、神絵師に送付した分以外、この世に果たして存在しているのだろうか。もしかして会場からの宅配とか、自宅に持って帰っている途中とか、どっかで燃えたり消えたりしてない? そして読んだ? 

自作が果たして他人の目にふれているかどうか、あんまりに知りたくなってしまって、二月ごろに、弊同人誌について読んだか、読んでないか、そもそも持ってないか、ツイッタ―上で三択アンケートしたらゼロ票のまま終了したり、タイムラインが動いているのを見計らって、春コミ後だしそろそろ読んだ奴いるだろって、弊同人誌について明るく問いかけをしたりしてるんですけど、界隈に存在していると思わしきフジョシたち~~~~~どう?

しかし果たして私が人事を尽くしたか、つまり、私がより多くの他人に読まれようと努力をして文章を書けているかっていうと、全然駄目。「人に読んでもらうための文章技法」みたいなタイトルのエントリーがリツイートされて来て、どれどれって感じで開けて見てみると、完全に駄目。まず一文が長い、冗長、この主語、どこまで? あとこの大学受験英語長文みたいな形容詞、どこまで続くの、これはどの名詞にかかっているんですか? そもそもろくすっぽプロット書いてないし、だいたい全部その場での思いつきだろお前、みたいな。これを本業でも容赦なくやるので、ほんと「長けりゃいいってもんじゃない」をタイマンで言われたりもするんですけど、そのお言葉、本業ならまぁ、しゃあないと甘受しますが、同人小説でそれ、言う? 私が読めりゃいいじゃん! とかいう気持ちでやらかしておきながら、他人の評が欲しいというのはちょっと、各方面より遺憾の意を表明されてしまうのでは? 

そのような自省を全くしないかと言われれば嘘になるんですけど、とにもかくにも、私の史上最高成仏新刊は捌けた訳です。フジョシ! 読んだ? 感想は必須とは言わないので、読んだか読まないかだけ教えてほしい。でも、どっかで燃えちゃったり消えちゃったりしたなら仕方がないねって、このごろの私は、11月に出した本を半年も立たない内から*1ウェブに掲載したくて仕方がないんですけど、ここで冷静に考えてほしい。私、過去に幾度となく自称したとおり、おそらく満を持してのムラハチサークルじゃないですか。いや、実態は知らないし、界隈でどういう扱いされているのかも、界隈にまともに繋がっていない自意識がひたすらにあるだけなので、知ったこっちゃないんですけど、だから、「本が燃えたり消えちゃったりしたなら仕方がないな」と好意的に理解して、インターネット上に怪文書を放流したところで、メインで当該キャラクター同士の人間関係を専攻している人間には誰にも、言及されるどころか、読まれすらしないのではないか。仮に目に触れたとしても、クソ程分かりづらい文章の構造している自覚はあるので、やはり読まれやしないのでは?

 

そもそも同人誌自体、「自分が冊子形態にしたいから」と言って出すのが殆どなのだろうと思いますが、私は同じような妄言を共有する人間を増やしたいと思って、少しでも自分の思考に理解を求め、大規模な解釈違いが(私の中で勝手に)発生していた潮流にNOをという志を持って、或いは、同人誌を出すというフジョシの最終ラインを突破することで、所謂神絵師とかサークル者とか、そういった所の人間関係の俎上に上がることが出来るのではないか(そしてそこから得た人脈による何らかの利を得られるのではないか、例えば小説のワンシーンを図式化してもらえるとか)等、諸々邪な考えと共にサークル参加を始めた訳ですが、

 

「共有目的で頒布したが、結局読まれなかったであろう文章に意味はあるのか」

 

この問いにぶち当たる度、私は過去、病室のカーテンの内側に寝転がりながら読んだハチミツとクローバーを思い出すようにしています。

 

うまくいかなかった恋に意味はあるのか

羽海野チカハチミツとクローバー』10巻)

 

今ならわかる、意味はある。あったんだよ。ここに。

竹本くんは恋を通し自己を見つめなおし、私は文として出力することで数年にわたる妄執を成仏させたのだと。

例えそれが誰の目に触れなかったとして、その妄執が、目下後が無くなってきている私の実生活に何ら実績を残さなかったとして、

思い続けたこと、書き続けたことに意味はあったのだと、私はそう信じている。

 

 

ハチミツとクローバー 10巻セット (ハチミツとクローバー) (クイーンズコミックス)
 

 

*1:同人誌の全文ウェブ掲載の時期については個人差があります。私としては、それは同人誌の作り手が決めるべきことだと思います。